江ノ島ガール
「だから、お互い好きでもないし愛し合ってもいないし何の利害関係もないのに、しかも男女でゲイとヘテロのくせに結婚した、っていう事実が重要なんじゃん。なんで?ってなるじゃん。不条理ここに極まれりじゃん。そもそも結婚なんて不条理なもんなんだって、結婚なんて意味ねえんだよバーカ、ってあたし達が世の中にしらしめてやんの」
「ようするに結婚の既成概念をぶち壊すために結婚するってこと?」
「そう!そうなの。人類の進化の第一歩だよ、きっと」
僕はしばらく沈黙したあと、「……面倒くせえ」と思った通りのことを言った。
面倒くさいことを避けて二十六年間生きてきた僕にとって、ミチルのその提案は賛同できるところが1ミリも無かった。
「だからダメなんだよ、みちるは。すぐ面倒くさい面倒くさいってさあ」
「面倒くさいもんは面倒くさいんだからしかたないだろ。結婚以前に僕とお前じゃ価値観違いすぎ。そんな意味不明な行動に走るくらいなら、僕は一人で孤独に年老いて死んだほうがマシ」
と僕が言うと、ミチルはいきなり立ち止まり、僕の眼前にさっと中指を立てた。
「だったらこんなとこまでのこのこついて来てんじゃねーよ、バァカ!」
「はあ?行きたいっつったのはお前だろ。何なんだよ。こっちは酔っ払い女の気まぐれに付き合ってやってんだからちょっとは感謝しろよ」
「みちるはいっつもそう!そうやって上から目線でさあ、かわいそうなメンヘラ女に優しくしてやってんだって態度だよね!言っとくけど全っ然優しくないからあんたなんて!」
「はあ?お前のどこがかわいそうなメンヘラ女なんだよ。どう見てもただの酒乱のかまってちゃんだろ」
「みちるだってたいがいかまってちゃんじゃん!ゲイのくせに恋人作んのも人付き合いも面倒くさいとか言ってさ、そうやって孤独なオーラ出してれば誰かがかまってくれると思ってんでしょ。みちるのほうがよっぽどかまってちゃんじゃん!」
「はああ?僕がどういうふうに人と付き合おうがお前にはまったく関係ないだろ。なんなの孤独なオーラとか。お前さ、そうやって勝手に人のこと分析して腹ん中で見下してるから、友達にも男にも逃げられんじゃないの?」
「あんたなんかにそんなこと言われたくない!みちるにはわかんないもん絶対!あんたにあたしの気持ちは一生わかんない!」
「わかるわけがねえだろクソ女」
「うるせえクソ男!童貞のくせにスカしてんじゃねえよ、てめえなんてエイズで死ね!さっさと死ね!」
思わず拳が、出かけたが寸前のところで抑えた。ミチルは顔を真っ赤にして目に涙を浮かべて僕を睨みつけていたが、僕が黙って静かな怒りを表明すると、くるっと前を向いた。
「みちるなんかに私の気持ちは一生わかんないし、私なんかにみちるの気持ちは一生わかんない」
そう言って、再び歩き始めた。そんなのあたりまえだろと僕は思った。もしわかるなら僕たちはもう二度と言葉なんて交わさなくて済むはずだし、わからないからこそ江ノ島まで来ていつものように不毛な口喧嘩を繰り返す。
ミチルは黙ったまま海岸沿いの道路を歩き続けた。僕は海を見ながら歩き続けた。何十分も歩き続けた。道も海もどこまでも続いていた。空は青黒かった。ぽつぽつと星が見えた。僕に背中を向けて歩いていたミチルが言った。
「ねえ、みちる」
「なに」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
「うそ。怒ってるくせに」
「怒ってないって」
「怒ってる」
「怒ってない。いつものことだと思ってるだけだし」
「ねえ、みちる」
突然ミチルが立ち止まった。
「なんだよ」
「もっと海のそば行かない?」
僕が返事をしないうちにミチルは低い鉄柵を越えてジャンプし、海辺へ続くブロック塀へ降りてしまった。僕も鉄柵から降りた。斜めのブロック塀の下は雑草と砂利になっていて、海に近づくと砂浜になった。ミチルは波打ち際の数メートル手前で佇んでいた。潮の香りと夜の匂いが入り混じって煙みたいな匂いがした。真夜中の海は無人で暗くて静かだった。不思議な感じがした。
僕は数歩うしろからミチルの背中を見ていた。
「あたし、海はいる」
と、突然ミチルが宣言した。そして本当にカーディガンとカットソーを脱ぎ、黒のキャミソール姿になった。暗闇にミチルの白い腕が浮かび上がった。僕は唖然とした。ロングスカートを太ももまでたくし上げ、ぱっぱとサンダルを脱いだ。
「寒っ!」
当たり前だった。残暑とはいえ、今は九月下旬でここは真夜中の江ノ島で僕は服を全部着ていても少し寒い。しかしミチルは意を決したようにそのまま大声で奇声を発しながら海へ遁走していった。僕も一応追いかけた。もしそのまま帰ってこなかったら面倒くさいことこの上ない。が、勢いづいたように見えたミチルは波が足首に浸ったあたりであっけなく立ち止まった。背後の僕に言う。
「ねえ、寒いかなあ、海」
「寒いだろ」
「死ぬかな」
「死なねえよ」
「ねえみちる」
「あ?」
「殺してよ」
「は?」
「僕を殺して」
「なにが僕だよ、めっちゃキモいそれ」
「あたしってキモいかなあ」
「キモい。めちゃくちゃキモい」
「だから幸せになれないのかな」
「だろうね」
「ねーみちるっ!」
「なんだよっ」
「あたしほんとは、生まれ変わったらみちるになりたい」
この期に及んでミチルが言った。僕にはやっぱり語弊があるように聞こえる。だってミチルはすでにミチルだ。そして僕は生まれ変わってもミチルになりたいとは思わない。僕たちの齟齬はそうして埋まることはない。僕がミチルになりたかったら僕たちはお互いになりたい自分を補え合えたかもしれない。
「ねえ、寒いかなあ、海」
「いいからもう早く入れよ、お前」
僕は躊躇しているミチルの背中を蹴った。ミチルが面白いようにバランスを崩し、ぺしゃん、と前へつんのめった。かろうじて手と膝をついて冠水はまぬがれた。
「いやあ、もう!けったー!みちるがけったー!」
四つん這いに倒れた隙間に波が流れ込む。マヌケな格好でミチルがいたずらを先生に告げ口する小学生みたいに叫んだ。僕は爆笑した。
「あははははは!ざまあ!」
「ふざけんなー!冷たい!めっちゃ冷たい!死ぬー!」
「死ね!アル中クソ女!」
「ひどい!お前はひどい!このひとでなし!くそーもーばかー!」
ミチルが僕に思いっきり海水をかけてきた。飛沫がビシャっと服に振りかかった。
「うわっ、やめれ、まじで」
「あははははは!ざまあ!超ざまあ!」
「ざっけんなクソ女!」
「うっせークソ男!あはははは!くらえ!」
身の危険を感じて逃げるも遅く、僕のみぞおちにミチルの飛び蹴りが決まった。僕は浅瀬に倒れた。
「あははははは!バーカバーカ!」
間髪入れずミチルが海水を浴びせてくる。服も靴も顔面もまたたく間にびしょ濡れになった。
「あははははは!あっははははは!最高!」
「……最悪」