江ノ島ガール
「知らないよ、こっちが聞きたいよそんなの。どうせ昔の偉い人とかでしょ。誰が決めたかわかんないことにいちいちふりまわされなきゃなんないんだよ女は。それにくらべたら男なんて、美少年でゲイでエイズで死ねるじゃん。どんだけ自由なんだよ。みちるこそ自分が心底自由だってことに感謝して生きてるわけ?生きてないでしょ?自分はゲイだから未来なんてないとか思ってどうせその日暮らしで生きてんでしょ?いいよね行き当たりばったりで。自分の体が衰えることとか死ぬこととか考えなくても生きてけて、いいよねほんと。羨ましいよ。あたしはみちるが羨ましい。あたしみちるになりたい」
罵倒されているのか賞賛されているのかよくわからないが絡まれているのは確かだ。マスターが同情するように僕の前にジンライムを置いた。僕はいっきに飲み干した。ゴン、とグラスを置いた瞬間またミチルが口を開く。
「っていうかあたしほんとにみちるになりたいんだよ」
「別に僕、美少年じゃないけど」
「でもみちるはきれいだもん。きれいって自分で思ってなさそうなとこがきれい」
へえ、とすかしたふりをして呟く。綺麗なミチルに綺麗と言われるのは単純に嬉しい。今は横顔以外綺麗とはいえないが。
「みちるはさあ、自分じゃ思ってないだろうけどさ、完璧なんだよ。完璧に近いの。ゲイできれいで自由ですごいキラキラしてる。言ったらそうなのかなって自分で思っちゃうからほんとはだめなんだけど、悔しいから言う」
「あっそう。それって褒めてんの?」
「褒めてるよ。超絶褒めてる。あたし初めてここ来た時のこと忘れらんないもん。あたしにとっては二丁目イコールみちるだから」
僕は何て返していいのかわからなかった。照れたのではなくとっさに憎まれ口を返したかったが思いつかなかったのだ。脳みそが半笑う。
「でもいっこだけ、みちるの欠点はねえ……あたしに惚れないとこだね」
「三島由紀夫かよ、お前は」
そして繰り返すが僕は当時の三輪明宏のような美少年では決してない。ミチル以外にはきれいだなんて言われたこともない。生まれたての雛鳥の法則でミチルが僕を買い被ってるに過ぎないとしか思えない。僕は今年でもう二十六で、キラキラしてるなんて表現が似合う年でもない。
でも僕は嬉しかった。
酔っ払いのたわごとだとしても、ミチルの言葉は僕を風に揺れる木の葉程度には舞い上がらせた。
「……なんかどっか遠く行きたいな、あたし」
ミチルがカクテルのおかわりをマスターに断られ、がっかりしたついでにいつもの口癖を呟いた。「遠くってどこ?」 僕は尋ねた。いつもと違うのは僕のほうだった。
「江ノ島」と、数十秒後、ミチルが言った。「ねえみちる、今から江ノ島行かない?」
ミチルと初めて出会ったのは半地下にあるそのバーの入り口だった。僕らはすれ違った。僕はマスターに許可を貰って、というか何割かのバックマージンを払う約束で店の客を物色することを許してもらって、その日も店の「外から」、客の出入りを静かに眺めていた。ファミリーとは無縁な僕がファミリーと名のつくコンビニの前で、好きでもない煙草まで吸いながらそんな真似をするのは、寝たい相手としか寝たくないからだ。能率が悪いと言われるかもしれないが、深夜の公園や路上をあてどもなく徘徊したり、周囲を気にしながら店の中で選別の目を光らせるよりは、少し離れた場所から獲物が来るのをじっと待ったほうが、よっぽどピンポイントに目ぼしい相手を見つけることができる。実際、それで一晩に一人以上の客は必ずつかまる。それに僕は待つことがそんなに嫌いではない。雨の日と真夏と真冬以外はそんなふうにして気ままに日銭を稼いでいた。
目当ての男を追って店に入りかけるとちょうどミチルは出てくるところで、僕たちはぶつかった。ミチルが先に「すみません」、と言い、僕はその顔をまじまじと見た。ミチルは綺麗だったからだ。次に、顔の僕と同じところにほくろがあるなと思った。それから一ヶ月後、僕はミチルが僕と同じ名前(僕の方は源氏名だが)であることを知った。売専やってると僕が言うと、ミチルは大きな瞳をキラキラさせて女の子とは思えない下品なセリフを吐いた。それから半年後のミチルの誕生日に、初めて会った時同じところにほくろがあると思った、とミチルは僕に言った。
正確に言うと僕のほくろは左側、ミチルのほくろは右側にあり、僕たちは半年以上も「鏡に映った自分」のほくろの位置のことを同じだと錯覚していた。
ミチルが江ノ島行きを提案した二時間後、僕たちは何の因果か奇跡か、魔法のように江ノ島に着いていた。深夜の江ノ島は無人で薄青くて冷たい潮風が吹いていて、僕たちを陽気にさせた。とりあえず海の見える方角へ歩いていった。いつものように他愛ない会話をしながら。
「こういう夜っていいよね。あたし大好き」
両手を交互に大きくあげて歩行しながらミチルが言う。
「なんかすごい青くてさ。なんで夜って青いんだろうね。空じゃなくて空気が青い。透明な青だよね。ねえみちる、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「ねえやっぱさ、あたしたち結婚すべきじゃない?」
「は?まだそんなこと言ってんの。すべきってなんだよ。すべきじゃねえよ、全然」
「そうかなあ。あたしたちって結婚するために出会ったんじゃないのかな」
「はあ?おそろしいこと言うのやめて。僕はお前とは結婚したくないよ」
「あたしとじゃなくても結婚したくないわけ?みちるって」
「うん。する理由がないもんだって」
「結婚ってなんですんのかなあ、みんな」
「知らないよ。結婚してる人に聞けよ」
「じゃあさあ、年取って万が一死に損なっててお互い一人ぼっちだったらさ、しようよ」
「やだ」
「なんで!」
「っていうかなんでお前はそこまでして僕と結婚したいんだよ」
「あたしさあ、気づいちゃったんだよね。なんか結婚って、すっごい不思議だなーって」
「なにが」
「だって、男と女なら誰でもできるんだよ。結婚て」
おかしくない?とミチルは言った。
「別におかしくなくない?」
「だってさ、それってつまり全然好きじゃない人とでも家族になれるってことじゃん。戸籍上は。誰とでも家族になれるんだよ。一回しか会ったことない人とでも、結婚しようと思えばできるんだよ。おかしいって、絶対」
「一回しか会ったことない奴と結婚する奴がどこにいるんだよ」
「だーかーら、そういうおかしな制度なんだよ。だから、ゲイのみちると女のあたしでも充分活用できるじゃんて思うわけ」
「だから僕はお前と結婚してまで家族になりたくないって」
「家族じゃなくてもいいの。恋人とか旦那さんとかそういうのじゃなくていいの。友達でもなくていいの。赤の他人のままでいい。今のあたしとみちるのまま、何も変わらないままで結婚ってできるんだよ。あたしそれは凄いことだと思う。画期的だよ絶対。もはや新人類並に」
まったく理解できない。が、赤の他人のままでいい。という言葉は魅力的に聞こえた。でもそれなら結婚してもしなくても同じじゃないか、と思う。のでそう言うと、ミチルはわかってないなあ、と言うかのごとく大袈裟に溜息を吐いた。