暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~3
いつも一人で屋敷を出るときは塀を乗り越えているため、慣れた様子で塀を越えて抜け出してきたのである。運が良ければ、夜明け前までに戻れば、ナヨンには見つからずに済む。万が一、見つかってしまったときは、潔く叱られるつもりでいた。確かにナヨンをまた死ぬほど心配させてしまうことは確かなのだから、叱られても文句は言えない。
もし、文龍が危機に瀕するようなことがあれば、凛花は迷わず身を晒すつもりだ。女ではあるが、こう見えても、剣の腕はそんじょそこらの男には負けないと自負している。大切な文龍を凛花が守る。
それにしても、文龍はどこにいるのか。このままでは、文龍の身に何かあったしても、判らない。凛花の中で焦りが募る。
月夜のはずなのに、今夜は運悪く月は出ておらず、全くの闇夜だ。そのことも凛花の心細さを助長させていた。
その時、遠くから車輪の回る音が聞こえてきた。音はどんどん近くなり、固唾を呑んで見守る凛花の前で大きな荷車が砂埃を巻き上げながら止まる。
その時、ずっと闇一色に覆われていた空が二つに割れ、雲間から満月が見え始めた。そのお陰で、凛花の視界はぐっと鮮明になった。
蘭輝の屋敷の門が開き、主人らしい長身の男が出てきた。男の顔立ちはここからではしかとは判じ得ないけれど、そのいでたちは随分と奇妙だ。凛花がいつか書物で見た絵―清国人の纏う服に似ている。
恐らく、あれが李蘭輝だろう。蘭輝が何か声高に言っているが、その声もここまでは届かない。辛うじて、何をしているかが判る程度だ。
車を引いていた逞しい男たちが荷を解き始めた。筵にくるまれたその下には何の変哲もない木箱であったが、ほどなく、凛花は危うく声を上げてしまうところだった。
あろうことか、蘭輝らしい男が木箱の中から取り出したのは玉(ぎよく)の首飾りであった。何の玉石なのかは遠くて判らない。月明かりを浴びた首飾りがきらきらと光って見えるのは、夜目にも綺麗だった。
凛花も若い娘である。こんなときなのに、状況もいっとき忘れて首飾りの輝きに見惚れた。
と、いきなり後ろから大きな手で口許を塞がれた。
―何なの?
凛花は、ありったけの力で暴れたが、哀しいかな、相手は大の逞しい男のようだ。ほどなく抱きすくめられ、一切の身動きを封じ込まれてしまった。
この香りは―。
凛花はハッとした。確か、二度目に漢陽の町で出逢った時、朴直善の身体から漂っていた香りと同じものだ。妙に甘ったるい女人が好むような香だったゆえ、よく記憶している。
性格と同じで、香の趣味まで悪い男だと更に直善に対する印象が悪くなったのだ。
では、あの執念深く凛花を狙っているという男が町の子どもに手紙を持たせ、ここまで呼び寄せた―?
「どうやら、私に気づいたようだな」
口を覆っていた手のひらが離れ、思わず振り向いた凛花の眼に映ったのは、やはり朴直善であった。
彼は凛花を縛(いまし)めた手はそのままに、不遜に言った。
「思ったとおり、来たね。そなたなら、きっと来ると思った」
「あの手紙を書いたのは、やはり、あなたなのね」
フフと直善が陰気に笑った。
「流石に頭の回転が良い。私は馬鹿な女は嫌いだ。そなたをますます気に入ってしまったよ」
直善の手が伸び、凛花の頬を撫でた。
「触らないで!」
こんな男に触れられただけで、自分の心まで穢れてしまいそうだ。何て卑劣で、いけ好かない男だろう。
「私にそんなたいそうな口をきいても良いのか? そなたの恋しい男の生命は、ほれ、この手の中にあるのだよ」
謳うように言いながら、直善は片方の手で凛花を捕まえたまま、一方の手を上向けて振って見せた。
「馬鹿な」
一笑に付そうとした時、直善が笑った。
「嘘だと思うのなら、思えば良い。さあ、これから面白いものを見せてあげよう。そのために、そなたをここに呼んだのだからね。これから、恋しい男がそなたの眼の前で死ぬ。まさに、これ以上ないというほどの見せ物ではないか。朝鮮中でいちばんと呼ばれているパンソリでも、今夜の芝居ほど面白くはないだろう」
顔が笑っているのに、眼は笑っていない。以前にもまして冷ややかな光が凛花を射貫いている。
思わず、身体中の膚がザッと粟立った。
「来るんだ」
直善が言い、凛花の片手を掴んだまま、片方の手で強く背中を押した。ドンと殆ど突き飛ばすように押されたため、凛花の身体は前へとつんのめった。
「私をどうするつもりなの?」
恐怖に駆られながら訊ねると、直善は微笑んだ。
「大丈夫、そなたを殺したりはしない、凛花。本当にただ、面白い一世一代の見せ物を見せてあげるだけだから」
物言いは優しいが、直善の扱いは荒かった。凛花は引きずられるような格好で空き家から連れ出され、どこかに連れられてゆく。
少し歩くのが遅いと、グイと荒々しい力で引っ張られるため、掴まれた腕が痛みを訴え始めたほどだった。
どれほどの間、そうやって引っ張られていただろう。凛花には永遠にも思える長い時間だった。
「役者は揃った。これから面白い見せ物が始まるよ」
耳許で囁かれた声と共に、凛花は再び強い力で乱暴に背中を押された。弾みで勢い余って転び、道に膝と手をついてしまう。
掴まれた手首が酷く痛んだ。その部分をさすりながら顔を上げたまさにその時、我が眼を疑った。
文龍が見知らぬ若い男と背中合わせになり、剣を構えている。その先にいるのは先刻、荷車の荷を改めていた男、李蘭輝であった。
「文龍さまッ」
凛花が思わず叫ぶと、文龍がハッと振り返る。その瞬間、凛花の後ろから鈍く光る短刀が飛んでいゆくのを、凛花はまるで悪い夢を見ているような心持ちで茫然と眺めているしかなかった。
「貴様―!!」
直善に連れられてきた凛花を認めた文龍が怒気で顔を歪める。
その時。
ヒュッと音がして短刀が凛花の脇をすり抜け、物凄い勢いで飛んでいった。直善が投げたものだと凛花が理解した時、文龍が肩を押さえて怒りの形相で立っていた。
直善の武芸の腕は知れている。これだけ離れた場所から短刀を投げたからとて、到底、文龍に命中させることなどできないのは判っていた。恐らく、短剣は文龍の腕をほんの少し掠めただけだろう。
判ってはいても、凛花は文龍が自分のせいで疵を負ったと思うと居たたまれなかった。
「文龍さま!」
凛花は涙混じりの悲鳴を上げた。
―私のことなら、心配しなくても良い。泣くな、凛花。これしきの傷、かすり傷の中にも入らぬ。
文龍の面には、うっすらと笑みさえ浮かんでいる。こんなときでも、凛花に余計な心の負担を与えないようにと、微笑みかけているのだ。
その静寂の間をついて、鋭い雄叫びが上がった。相方の義禁府武官が獣の咆哮のような唸りを上げながら、直善に向かって斬りかかってゆく。
それは、まさにひと刹那の出来事にすぎなかった。ふいに直善の脇から飛び出してきた長身の男が直善の前に立ちはだかり、白刃が閃いた。
長い髪がふわりと翻り、男のしなやかな長軀が回転しながら空を舞う。
まるで舞を見ているかのように、一連の動きは優雅だ。
凛花が我に戻った時、彼女の眼の前では、武官が血飛沫を飛ばしながら倒れようとしていた。
作品名:暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~3 作家名:東 めぐみ