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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~3

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 大抵の場合、どのように秘密めいた人物であっても、義禁府の入念な調査と情報収集力をもってすれば、自ずと明るみになるものだ。しかし、蘭輝だけは唯一の例外であった。
 どれだけ調べてみても、彼について一般に知られている以上のことは出なかった。
 蘭輝は普段から滅多に人前に出ない。商談をする際でも、代理の者にさせる。たまに姿を見せても、薄い帳(とばり)越しの対面で、交渉相手は蘭輝の容貌をしかとは見られないように配慮されていた。
 それでも、何とか蘭輝を知るごく一部の者や噂を寄せ集めて、件(くだん)の似顔絵を宮中の図画(トファ)署(ソ)の絵師に描かせたのである。
 蘭輝の長い髪は今、月光に照らされて、淡く発光しているかのように輝いていた。まるで月の光を紡いだかのような髪は確かに黄金色に輝いており、月明かりに晒された白皙の膚は雪のように白かった。
 すべてが神の恩寵を受けたとしか思えないような完璧な造作であり、眩しいばかりの美貌である。その容貌は混血というよりは、文龍には全くの異様人そのものに見えた。
 身に纏っている清国式の丈長の上衣は淡い紫で、全体的に金糸銀糸で蓮の花が織り出されている。遠くから見ている限りでは、女性に見えないこともないほどの艶麗な美貌だ。
 だが、すっと伸びた背筋や広い肩幅は紛れもなく男性であり、しかも、かなりの鍛練を積んだ武芸者だと知れる身体つきをしている。
 あの男、ただの商人ではない。
 文龍は敵が予想外に手強いと知り、唇を強く噛みしめた。
 しかも、予期せぬことが起きるときは立て続けに起こるものだ。
「荷を手早く降ろすのだ」
 蘭輝が何か叫んでいるのに、その言葉が全く意味をなさない。茫然としている中に、漸く事態を掴みかけてきた。
 蘭輝が喋っているのは、清国の言葉だ。流石の文龍も清国語は操れない。
 蘭輝の傍に控える朝鮮人らしい男が車引きたちに向かって口早に指示している。小声なため、何を言っているのかは、この場所からでは聞き取れない。あの男は蘭輝の言葉を通訳しているのかもしれない。恐らくは、あれが蘭輝の片腕だという側近だろう。
 側近の言葉を聞いた男たちが慌てて荷車から荷を下ろし始めた。荷は外側から筵で包んであるため、一見して財宝を運んでいるようには見えない。
 男たちが寄ってたかって筵を剥ぐと、これも簡素な木箱が現れた。あの中に肝心の宝物が入っているのは疑いようもない。
 蘭輝がゆっくりと荷に近づいてゆく。また清国語で何やら言うと、男の一人が蘭輝に近い木箱の蓋を開けた。蘭輝が手を入れて中から取り出したのは、珊瑚の豪奢な首飾りであった。彼はしばらく首飾りを様々な角度から検分するように眺め回していた。更に空いた方の手で掴み取ったのは、翡翠の簪だった。
 彼が顎をしゃくると、他の男たちが次々と荷を解く。ざっと見積もって木箱は六個。蘭輝が開けさせたのはその中の二つで、一つからは眼にも鮮やかな絹布、三つめの箱からは見事な毛並みの虎の毛皮が出てきた。
 まさに、一人の人間が一生、何もしなくても両班並みの暮らしを送れるだけの財宝だ。いや、一人でなく、一体何人がそんな暮らしを送れるのだろう?
 今夜ひと晩で、この男はそれだけの財宝を国庫から盗み出した。更に何年も前から同様のことを繰り返していたのなら、どれほどの人が楽に過ごせるだけの財物を手に入れ、更にそれらを売り飛ばし、暴利を貪ったのだろう。
 それだけの金があれば、飢えや疫病で苦しみ喘ぐ民を何十人、何百人と救えるのに。
 民を救うべき国の財産を私有化して、私利私欲に耽る鬼畜にももとる恥知らずな奴らだ。
 文龍の中で言い知れぬ怒りが沸々と煮えたぎる。怒りが文龍の理性をわずかに狂わせたことが、彼の判断を誤らせた。
 文龍は走りながら、剣を抜いた。闇の中で凛花がくれた護身用の飾りが揺れる。虎目石が月の光を受けて光った。
「李蘭輝、貴様の悪事をしかと見届けた。観念して、大人しく縛に付け」
 叫んだが、相手が大人しく捕まえられるとは最初から思ってはいない。
「義禁府の雑魚めが。格好をつけても、うぬは所詮、国王の忠犬であろうが」
 文龍は眼を見開いた。
 蘭輝は朝鮮語を喋るのだ! 十六の歳から十年以上もこの国にいるのだから、当たり前ではあるが、それでは何故、最初に清国の言葉を使ったのか。
 刹那、彼の中で閃いた。
 蘭輝はただ文龍を撹乱させるためだけに、わざと清国語を使って見せたのだ。怜悧なこの男は、義禁府の武官が自分を見張っていることを最初から知っていたに相違ない。
 まさか、そこまでこちらの動きを見越されていたとは。文龍の怒りと焦燥が更に強まった。
「小癪な」
 文龍が刀を振り上げる。月光を受けた長剣が煌めく。
 そこに、さっと走ってきた影があった。長年、組んで極秘調査に当たっていた相棒である。
 二人は背中合わせになりながら、蘭輝を初めとする敵方を注意深く見つめた。
「油断するな。この男、ただの商人ではない。相当の手練れだ」
「―判っている」
 相方が頷き、こちらも長刀を抜いた。
 その時。
「文龍さまッ」
 叫び声が一瞬、文龍の注意を逸らした。その瞬間、短剣が飛んできて、文龍の肩を掠めて通り過ぎた。

 凛花は先刻から、気が気ではなかった。もうどれほどの間、ここで待ち続けていただろう。
 丁度、李蘭輝の屋敷の斜向かいに、小さな空き家がぽつねんと建っていた。そこは同じ蘭輝の屋敷から斜向かいでも、文龍たちが待機していた場所とは空き地を挟んで丁度右と左に分かれているのだが、凛花がそのようなことを知る由もない。
 つまり、文龍は蘭輝の屋敷が手前に見える道の右側から、凛花は左側から様子を見守っていたのだ。周囲に民家や屋敷がないことはないが、どれもかなりの距離がある。誰にも見つからずに身を潜めるには格好だった。凛花は蘭輝の屋敷がよく見える室の扉を細く開け、注意深く様子を窺っている。
 あの手紙―朴真善が書いたと思われる―を見てからというもの、凛花は気が気ではなかった。幸か不幸か、あの日から十日ほどの間、今夜まで文龍と逢う機会はなく、日は過ぎた。
 もし、文龍の顔を見てしまえば、勘の鋭い彼に何か気づかれるかもしれない。そうなれば、満月の夜に蘭輝の屋敷に駆け付けられなくなってしまう。
 そして、今宵が次の満月の夜であった。
 一体、文龍がどこにいるのかは判らないけれど、足手まといにはなりたくない。ゆえに、よほどのことがない限りは出てゆくつもりはなかった。ただ、文龍が右議政や内侍府長の不正を暴く任務についている―、そう知って、居ても立ってもいられなかったのだ。
 夕刻から頭が痛いと言って、夕餉もそこそこに自室に引っ込み、布団にくるまっていた。更に夜半になり、布団を丸めた上に掛け布団をすっぽりと被せ、ちょっと見には凛花が眠っているように見せかけて、そっと部屋を抜け出してきた。