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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~3

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 右議政朴真善と商人李蘭輝が結託し、ネタン庫から宮外へと運び出した財宝をひそかに売り捌き、暴利を得ている。そして、その手先となって、ネタン庫を開けているのが内侍府長朴虎善だ。更に虎善は息の掛かった内官を手駒とし、使役している。
 そこまでは間違いない。一体、何が、どこで間違ったのだろう。
 文龍は思案するかのように眼を瞑った。今夜も動きやすい軽装である。面を知られぬ用心のため、顔の半分ほどを衣装と同色の褐色の布で覆っていた。
 腰に差しているのは、長刀と短刀がそれぞれひとふり。常に携帯している愛用の刀だ。
―凛花、力を貸してくれ。
 文龍は長刀の柄につけた飾りに触れる。いつものように虎目石を撫でている中に、不思議と波立っていた心が鎮まってゆく。
 凛花のためにも、生きて還らねばならない。
 愛しい女を哀しませるわけにはゆかないのだ。
 文龍は静かな覚悟を秘め、刀に手をかけたまま用心深く前方を見つめる。かれこれ、この場所でもう数時間は待っている。
 文龍がひそかに身を潜めているのは、小さな筆屋の傍であった。この店は、商いをやっているのは朝から夕刻までで、陽が落ちる時刻になると、主人は戸締まりをして帰る。さほど遠くない場所に自宅があり、そこから通ってきているのだ。
 ゆえに夜間は全くの無人になり、文龍が潜伏するには好都合だ。任務に失敗は許されない。というより、失敗は即ち死を意味する。最悪の事態を招かないためにも、入念な事前の調査で、この界隈の地理は虱潰しに調べ上げ、頭に叩き込んである。
 待つこと自体は何ほどでもない。隠密としての調査は何よりも忍耐と適切な判断力が必要とされる。
 が、待つ間でもなかった。往来の向こうから、闇の底を這うかすかな音が響いてくる。
「来たな」
 文龍は呟き、刀を持つ手に力を込めた。
 ガラガラと聞こえてくるのは、間違いなく荷車の車輪が回る音。
 ここから遠くない場所に、仲間がもう一人、待機している。文龍は指を唇に当てると、ホーホーとミミズクの啼き声を真似た。
 淋しげな啼き声が夜陰をふるわせてゆく。
 ほどなく、ホーホーとこれもミミズクにそっくりな啼き声が返ってきた。文龍と組んで任務に当たる相棒との間で決めている合図であった。
 義禁府の極秘調査では、大抵、二人から数人の少人数単位で動く。あまりに大人数だと偵察側に気づかれる怖れがあるからだ。相棒は殆どの場合、決まっていて、各組によって合図の仕方は違う。文龍たちが夜はミミズク、昼間は鳥の啼き声を真似るように、ある組では犬の遠吠え、猫の鳴き声を使っている。いずれにしても、その合図だけで、敵か味方を判別できる便利な代物ではある。
 やがて、闇の中から荷車が現れた。雇われたらしい労働者風の屈強な男たちが車を引き、前後左右を内官たちが守るように固めている。皆、官服ではなく私服だが、あれは間違いなく内官たちだ。
 荷車を引く音が真っ暗な底なしの闇をかすかに震わせている。文龍には、それが今にも逝こうとする死者を黄泉路から迎えに来た死の馬車の音にも聞こえた。
 都でも五本の指に数えられるという商人李蘭輝の屋敷が少し離れた斜め前に見えている。ぐるりと取り囲んだ塀越しに松が道まで枝を張り出していた。
 間近で見ても、両班のように豪勢な暮らしぶりだとつくづく思わずにはいられない。宏壮な屋敷とよく手入れのされた庭―、現実として、名ばかりの下級両班よりは、よほど豪奢な生活だ。
 少なくとも、凛花の父申ソクチェは、蘭輝の奢侈な生活にははるかに及ばない質素な暮らし向きだろう。そんな父に育てられた凛花もまた、意外に節約家である。
 しかし、文龍の眼には、義父と凛花の慎ましい暮らしぶりは好ましく映じていた。その点、凛花は良き妻となり、家政を上手く取り仕切るに違いない。
 文龍の実家である皇氏は建国以来の名家で、もちろん礼曹判書の体面に見合うだけの暮らしは維持しているが、父秀龍もまた基本的には華美贅沢を嫌い、万事つづましやかであることを好んだ。
 皇氏の若夫人となって、屋敷内を切り盛りする凛花の姿を思い描いている中に思わず頬が緩んでくる。母春泉は数年前にこの世を去った。もし母がまだ生きていたなら、凛花の母代わりとなって色々と教えてくれるだろうと思うと、残念だ。
 だが、凛花は聡い娘だ。教えられなくても、一つ一つ自分で経験しながら憶えてゆくと文龍は信じていた。
 ここは漢陽の外れということもあり、周囲にはちらほらと民家が見える。中には蘭輝には及ばないものの、それなりに羽振りの良い商人の屋敷もある。とはいえ、都のど真ん中に比べれば、閑静な佇まいを見せている。
 その意味では、蘭輝の屋敷はネタン庫から運び出した財宝の絶好の隠し場所ともいえよう。
 荷車が文龍の眼の前で停まった。屋敷の門が軋んだ音を立てながら開き、中から夜陰に紛れるように、ゆっくりと大柄な人物が歩いてきた。歩き方一つ取っても、その堂々とした居住まいから、その人物が大物だと判る。
 今夜、ここに右議政が来ていないことは予め調査済みだ。しかし、朴真善の不在は、この際、問題ではなかった。動かぬ証拠を押さえてしまえば、すべてはこちらのものなのだ。
 既に、相方もこの近くまで来ているはずである。文龍はまなざしに力を込め、前方を真っすぐに見据えた。
 時機を逸してはならない。いつ出てゆくかに、この任務成功がかかっていると言っても過言ではないのだ。ありったけの集中力をかき集め、文龍は相手の出方を見極めようとした。
 その時、急にぽっかりと闇が割れた。闇色に塗り込められた空から、ひとすじの光が地上を照らした。都の上に垂れ込めていた黒雲の間から、円い月が姿を見せたのだ。
 李蘭輝の顔が夜目にもはっきりと見えた。その瞬間、文龍は息を呑んだ。
 何と美しい男だろう!
 蘭輝の似顔絵は事前によく見て、人相は頭に叩き込んでいるはずなのに、実物を目の当たりにすると、似顔絵より更に秀麗な容貌だと認めざるを得ない。
 李蘭輝という男は、大変な変わり者―、更に謎の多い人物として知られていた。
―蘭輝が異様人の血を引いているというのは真実だったのか!
 清かな月光に照らし出された蘭輝は、腰まで届く長い髪を後ろで緩く束ねている。既にどう見ても二十代後半には達しているであろうのに、髪を結い上げてもおらず、身に纏っているのは、この(朝)国(鮮)の衣装ではなく、どちらかといえば清国の伝統的衣装を彷彿とさせるものだ。
 そのことは、蘭輝が清国で少年時代を過ごしたという逸話を思い起こさせた。
 巷で囁かれている蘭輝の半生は実に数奇だ。清国で貿易商として活躍していた朝鮮人と異様人の母との間に生まれ、生後まもなく父親と共に朝鮮にやって来た。しかし、八歳のときに父親が親戚に陥れられて破算、父の友人の手筈で生命からがら父子共に清国へ渡った。
 父は彼の地で失意の中に客死、清国で母親に育てられたものの、十六になって再び朝鮮へと舞い戻ってきた―、それがよく知られる蘭輝の一般的な経歴だ。
 異様人だという母親は一体、何者だったのか。何故、髪や眼の色が違う異様人が清国にいたのか。すべては謎であった。