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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~3

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「そう―」
 凛花は頷き、またしても一時、この少年の境遇に心痛めた。恐らく家があまりにも貧しくて、読み書きを習うこともできないのだ。
 もっとも、その日暮らしの庶民では、それは何も珍しくはない。親の方も子どもが字を憶えるより、働いて僅かなりとも家計を支えてくれる方を望むのだ。
 だが、今はそれどころではない。
 この手紙は一体、どこの何者が寄越したのか。凛花の婚約者が義禁府の都事皇文龍と知って、こんなふざけた内容の文をわざわざ町の子どもを使って届けさせたのだ。
 でも、と、凛花は一生懸命に考えた。
 ただの悪戯にしては、手が込みすぎている。両班で皇氏の当主、つまり文龍の父秀龍と付き合いのある人なら、文龍の婚約者として凛花の存在を知っていても不思議ではない。
 いや、少なくとも、文龍の父の知り合いの中に、こんな悪質な真似をする輩はいないだろう。だとすれば、一体、誰がこんなことを?
 その刹那、凛花の脳裡に一人の男の顔がよぎった。冷たい白皙の美貌が生来の酷薄さをいっそう際立たせているような、あの男。
 底光りのする冷ややかな眼で凛花を射貫くように見詰めていた朴直善。
 何故、この瞬間に、あの男の氷のような微笑を思い出したのかは判らない。しかし、凛花には、この書状を書いたのは間違いなくあの冷血な男に違いないとほぼ確信めいた予感があった。
 あの男は欲しいものを手に入れるためなら、手段を選ばないと凛花に言い切ったのだ。そして、あの男が望むのは凛花自身に他ならなかった。
 しかも、字が読めない町の子どもに手紙を持たせ、届けさせたという用意周到さだ。その用心深さも、いかにもあの怜悧で狡猾な朴直善らしいといえばいえる。
「最後にもう一つだけ訊かせてちょうだい」
 面倒臭そうに見上げてきた少年の顔を、凛花は覗き込んだ。
「この手紙をあなたに託した人は、どんな感じの人だった?」
 少年のとろんした細い眼が忙しなくまたたいた。彼は上目遣いになり、しばし考えているようだったが、首を振った。
「知らない。見たこともない人だった」
「じゃあ、身分は? 両班、それとも、職人か商人だったの? 歳は若かったのかしら、老人だったのかしら。ああ、それと、男だったか女だったか、それだけでも憶えてない?」
 矢継ぎ早に問われ、彼はまた考え込んだ。
 やがて、訥々と思い出しながら応える。
「男で、物凄く綺麗な人だった。あれは、どう見ても両班だね。俺らとは全然違う世界の人だ」
「ありがとう。よく思い出してくれたわ。お陰で助かった」
 凛花が少年に微笑みかけると、彼は少し眩しそうに凛花を見つめ、ニッと笑った。
「お嬢さまは綺麗だし、良い匂いがする。俺の母ちゃんや妹たちとは大違いだ。俺、お嬢さまの役に立てて良かったよ」
「これ、馴れ馴れしく無礼なことを申すものではありません」
 傍らからナヨンが窘めるのに、凛花は笑って止めた。
「良いのよ」
 少年がおずおずと訊いた。
「俺のような賤しい者でも、頑張って立派な人間になれば、お嬢さまを嫁さんにできるのかな?」
「まっ、何という身の程知らずなことを」
 ナヨンがまた柳眉をつり上げる。
 凛花は微笑んだ。
「それはどうか判らないけれど、努力して立派な人になるのは良いことよ。あなたは賢そうだから、きっと将来は人の役に立てるような人間になれるわ。希望を棄てないで、そうなれるように頑張ってね」
 どうやら、この少年は見かけほど鈍重ではなさそうだ。もし、適切な教育を受けられたなら、社会に貢献できる人間になるのではと思えた。
「ナヨン。この子を風呂に入れて上げて、何か温かいものを食べさせてちょうだい。後は、こざっぱりした衣服に着替えさせてね」
 ナヨンにてきぱきと指示し、その場を去ろうとするその背に、変声期真っ只中の声が追いかけてきた。外見はまるで子どもだが、少年の身体は確実に青年へと変貌を遂げつつあるらしい。
「そうそう、お嬢さま。もう一つ思い出したよ。俺に手紙を持っていくように言った人は、若い男だった」
「ありがとう。本当に助かったわ」
 凛花は振り向き、少年に手を振ると、急ぎ足で屋敷の方に戻っていった。
「全く、お嬢さまったら、物好きなんだから」
 ナヨンは薄汚い子どもを押しつけられ、随分とお冠である。
 少年の方は、まるで現世に降り立った天女を見送るかのようにボウとした顔で、凛花の去った方を見つめているだけだ。
「さあ、私についていらっしゃい。お風呂に入れてあげるわ」
 元々心優しいナヨンは凛花への不満もすぐに忘れ、少年に穏やかな口調で言った。
「でもね、これだけは心しておきなさい。お嬢さまが幾ら親しく話をなさったからといって、お前がお嬢さまと結婚できるなんて思っては駄目よ」
 この少年と凛花では、あまりに身分が違いすぎる。甘い夢を見させておくのは、かえってこの子が可哀想だった。
 が、少年から返ってきたのは意外な反応であった。
「じゃあ、俺はお姉さんでも良いよ。お嬢さまほどじゃないけど、お姉さんも美人で優しそうだもの。お姉さん、俺の嫁になってくれる?」
「まっ、な、何を言うの? 子どもが生意気なことを言わないの」
「俺、もう直、十四になるんだぜ。母ちゃんがいつも言うんだ。女房は年上の方が夫婦仲が上手くゆくってね」
 ナヨンはもう絶句して、言葉もない。
 後に、凛花は父に頼み込んで、この少年が申家の屋敷で働けるようにしてやった。少年はここで読み書きも憶え、成長して有能な家僕になるが、それはまだかなり先の話だ。
 更に、この小柄な少年がナヨンの良人となり、図らずもこのときの彼の言葉が現実になるとは、流石に、ナヨンも少年の方も想像だにしなかっただろう。仮に、少年の方は至極本気だったとしても、だ。
 ナヨンは少年のことにばかり気を取られていて、凛花が見て顔色を変えた手紙のことなど、忘れて果ててしまっていた。

 暗闇に散る花

 夜の深い闇が無限に続いている。じっと闇を見つめていると、底なしの闇に吸い込まれてゆきそうで、慌てて眼を凝らす。
 犬の遠吠えが遠くからかすかに聞こえ、物音一つないしじまを余計に感じさせる。
 今宵は満月のはずなのに、見上げた空は闇一色に覆い尽くされ、月どころか星さえ見当たらない。朝はあれほど良い天気だったのに、夕刻から俄に黒雲が空を隠し、この分では雨がいつ降り出しても、おかしくはない空模様だ。
 文龍は緩く首を振った。
 こんなことでは駄目だ。密偵としての調査はいかなるときも雑念を棄ててかからねばならない。些細な心の揺れや迷い任務の失敗は即ち死を意味する。
 今回の任務もこれまでと同じで、すべてが順調にいっていると思い込んでいた。しかし、時ここに至って、何かが違うと妙な違和感を憶え始めているのだ。
 それは例えようのないもの、強いて言えば勘である。義禁府武官となってから、数々の難事件を扱い、死と隣り合わせの危険をかいくぐってきた。その研ぎ澄まされた勘が〝何かがおかしい〟としきりに告げ、警鐘を鳴らしている。
 まるで魚の小骨が喉に引っかかって、どうしても取れないような、そんな気分だ。
 文龍は、この事件について改めて振り返ってみた。