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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~3

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「お前がこれから私の言葉に大人しく従うなら、お宝を盗んだことは黙っていてやる。次にネタン庫を開き、李蘭輝の許に宝物を運び込むのはいつだ? その日にちを私に教えろ。どうだ、悪い取引ではないはずだ。恐らく、これがお前の生き延びる最後の機会になるだろう。このまま内侍府長の飼い犬として悪事に手を染め続け、いずれは消されるのと、私を信じて平穏な暮らしを手に入れるのと、どちらを選ぶかはお前次第だ」
「―判った。そなたの言うとおりにする」
 内官から漸く望んでいた言葉を引き出し、文龍はわざと重々しく頷いた。
「賢明な判断だ」
「本当に生命は保証してくれるんだろうな。それこそ、利用だけされて口封じに消されるのはご免だぞ」
 内官がくどいほど繰り返すのも、無理はない話だった。
 文龍は、しっかりとした口調で請け合う。
「もちろんだ。先刻も約したとおり、生命を助けるだけでなく、生涯に渡って暮らしに困らないだけの金を受け取れるようにしてやる」
 そいつは、ありがたい。
 内官の呟きを聞きながら、これで漸く一つの山を越えた―と文龍は胸撫で下ろしていた。
 そして。内官は確かに文龍の顔を見てはいなかったが、文龍もまた内官の表情を見たわけではなかった。そこに、一つの誤算が生じた。やっと拘束を解かれた内官の顔に狡猾そうな表情が浮かんでいたことに、文龍は気づかなかった―。

 凛花は頭を傾け、眼を閉じて、片方の頬を膝に乗せた。
 傍らには、殆ど完成した刺繍が無造作に投げ出されている。
 凛花は今日、一日中、自室に籠もっていた。午前中は書見をして、午後からは半分ほど出来上がっていた刺繍を仕上げることにした。しかし、なかなか思うように進まず、針で幾度も指を突いてしまった。
 普段なら、まず考えられないことである。お転婆は自他共に認めているけれど、これで刺繍や縫いものの腕はまずまずなのだ。―と、自分では思っている。
 料理の方はまだ今一つといったところだが、こちらも来春の輿入れに備えて、ナヨンに教わりながら厨房で四苦八苦している最中だ。
 凛花は床に置いた刺繍を取り上げ、じいっと眺めた。庭に咲いていたもみじあおいは既に散ってしまったが、この白い絹布の上には鮮やかな紅い花が咲いている。五弁の花に戯れかけるように、蒼い蝶が飛んでいた。
 凛花自身はこの図柄をとても気に入っている。もみじあおいを見ていると、何とはなしに文龍を思い出すのだ。この美しい花が恋人の生まれた季節に咲くからだという理由はもちろんだけれど、もみじあおい自体が文龍に似ているような気がしてならない。
 もみじあおいは、一つの花が咲き終わると、次の花が咲く。前の花が咲き終わるのを待って次の花がそっと咲き出す様子には、文龍の控えめさと相通ずるものがある。萎んでもまた次の花が開き、次々に花が咲いてゆくその姿は、穏和な人柄の中にも強さを秘めた文龍にぴったりの花だ。
 早くこの刺繍を完成させて文龍に見せたい。その一心で夜遅くまで刺していたのだ。
 もみじあおいが文龍なら、花に寄り添う蝶はさしずめ凛花といったところか。凛花自身、これから先の生涯はそうありたいと願っている。
 文龍さまが花なら、私は花と共に生きる蝶。
 花の生命が終わるまで、ずっと側にいたい。
 凛花はそこまで考え、あまりに不吉な考えに狼狽えた。
 私ったら、何を禍々しいことを―。
 文龍を花になぞらえるのはともかく、その文龍にたとえた花の生命が終わるなどと。
 間違っても、考えるべきことではない。
 強く自分を戒め、凛花は続きを刺してしまおうと再び針を手に取った。
 そのときだった。
 両開きの扉の向こうから、明るい声が聞こえた。
「お嬢さま」
 聞き慣れたナヨンの声である。
 凛花もまた朗らかに応えた。
「どうしたの?」
 扉が開いて、ナヨンが入ってきた。
「表に妙な子どもが来ているのです」
「子ども?」
 凛花は首を傾げた。少なくとも、凛花の知り合いに子どもと言える年齢の者はいない。父は人付き合いが下手で、親戚付き合いもろくにしていないし、母方の従兄弟(いと)姉妹(こ)たちとは逢ったこともない。
「お嬢さまにお逢いしたいの一点張りなのです。何か逢って伝えたいことがあるとか申しているのですけれど」
「―良いわ、逢いましょう」
 気軽に立ち上がった凛花に、ナヨンが顔色を変えた。
「いけません。どこの子かも判らぬ得体の知れぬ者にお逢いになるなどと」
 凛花が事もなげに言う。
「子どもなのでしょ、別にいきなり斬りかかってくるわけでもないと思うわ」
「見たところ、身なりもみすぼらしいし、お嬢さまがわざわざお逢いになる必要もないと思いますよ。お気になるのなら、私が用件を聞いてお伝えしますから」
「あら、それでは、その子が納得しないのでしょう。いつまで経っても、押し問答を続けなければならないわ」
 時間の無駄よ。
 凛花はそう言って、ナヨンが止めるのもきかず、縁廊から階を軽やかな脚取りで降りた。そのまま絹の刺繍靴を履き、庭を歩いてゆく。
「お嬢さま~」
 と、ナヨンが困り切った顔で追いかけるのは、これはもういつもの光景だ。
 確かに門を入ったすぐの場所に、子どもが立っていた。十歳前後に見えるが、全体的に成長が十分でないようだ。身に纏ったパジチョゴリも薄汚れていて、至る箇所が破れている。
 どこもかしこも凛花の手でさえ力を込めれば折れそうなのは、恐らく栄養不足のせいだろう。
「あなた、幾つ?」
 男の子は問われるままに、〝十三〟と応える。
 凛花は小さく息を呑んだ。
 十三歳といえば、凛花と三つしか違わない。それなのに、小柄な凛花と比べても、少年は随分と小さかった。よくよく見ると、十歳どころか、八歳くらいにしか見えない。
「私に何か伝えたいことがあるそうだけれど」
 凛花が続けると、少年は頷いた。
「うん。直接、このお屋敷のお嬢さまに逢って、渡せって言われたから」
 彼は襤褸を纏っているにしか見えないチョゴリの懐から、くしゃくしゃになった紙を取り出し、おもむろに差し出した。
「これは?」
「お嬢さまに渡せって」
 少年はまた同じ科白を繰り返した。少し頭の回転が遅いのかもしれないが、それも深刻な栄養不足が原因だろうか?
 考えながら皺くちゃの紙を受け取ると、それは封筒だった。急いで開いてみる。
―次の満月の夜、面白いものを見せてやる。そう言えば、そなたの許婚者は義禁府きっての手練れだそうだな。その恋しい男が今、何の任務に就いているか、そなたは知っているのか? 皇文龍は今、密偵として極秘裏に右議政や内侍府長の身辺を嗅ぎ回っているぞ。それがどれだけ無謀で危ないことなのか、あの男は心得ているのかな? もし、そなたがその茶番を見にきたいのなら、商人李蘭輝の屋敷まで出向くことだ。

 ざっと眼を通した凛花は、蒼白になった。
「お嬢さま?」
 ナヨンが気遣わしげに見つめてくる。
 凛花は無理に微笑みをこしらえた。
「何でもないの。他愛ない悪戯よ」
 慌てて手紙を封筒に戻し、袖に仕舞う。
 改めて使い走りの少年に訊ねてみた。
「この文を見た?」
 いいや、と、彼はどうでも良さそうに首を振った。
「俺、字なんて読めねえから」