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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~2

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 平民に身をやつし、町中に出て情報を集め、更には容疑者を捕らえるに足るだけの証拠を集めなければならない。町の場末の酒場、昼でもなお薄暗い賭博場で、時には、両班の屋敷に家僕として侵入したこともあった。変装して紛れ込むのではなく、夜半に隠密として忍び込んだこともある。
 任務上の機密はたとえ両親、妻にでさえ話せない。仮に、話したところで、すべてを知らせれば、かえって余計な心配をさせてしまうばかりだし、大切な者たちの生命まで危険に晒すことになりかねない。
 文龍も凛花に仕事の話はしない。凛花の方も心得ていて、義禁府に拘わる話は避けているようだった。賢く美しい凛花。
 凛花のような女を妻として得られたのは、人生最大の幸福であった。そう思う反面、果たして自分の妻となることが彼女にとって幸せなのかどうかとの想いもあるのだ。
 同僚や上官の中で極秘裏の調査中にあえなく落命した者がいる。
―今年の秋には、初めての子どもが生まれるんだ。
 嬉しげに語った屈託ない同僚の笑顔が今でも忘れられない。新婚まもない彼は、商団の大行(テヘン)首(ス)の密貿易を暴こうと捜査中に亡くなった。歳も二十二、文龍より一つ若かったはずだ。文龍が尊敬していた上官は、その同僚を庇おうとして斬られ、絶命した。
 同僚の葬儀に顔を出した時、彼の遺した妻の腹は大きく膨らんでいた。真っ白なチマチョゴリを着て、その女人は眼を真っ赤にしながらも、気丈に良人の弔いに訪れた客に挨拶していた。
 まもなく嫁ぐ末娘の花嫁姿を見るのが愉しみだと言っていた上官は、その晴れの日を見ることなく旅立った。いずれ良人となる男に付き添われた末娘は上官の棺に取り縋って号泣していた―。
 そんなことを考えていると、葬儀で喪服を着ていた同僚の妻が、凛花と重なってしまう。
 いずれ、我が身も彼等のように任務中に生命を落とすかもしれない。その時、凛花をたった一人、残して逝かなければならないのかと思うと、胸が張り裂けそうだ。義禁府を志願したそのときから、自分の生命は天に委ねたと覚悟はしている。死ぬのが怖くないと言えば嘘にはなるけれど、自ら選んだ仕事に殉ずるのなら、悔いはない。
 だが。残された凛花のことを考えれば、未練も名残も尽きないだろう。何より、良人の死を受け入れた彼女がどれだけ哀しむのかと想像すれば、文龍の方が耐えがたかった。
 先刻、この宮城には無念の死を遂げたあまたの亡霊がさまよっているはずだ―と思ったが、やはり、今夜、自分がいつになく悲観的な思考にばかり走ってしまうのも、亡霊のなせる仕業だろうか。
 現に、後宮女官たちの間では、薄幸な陳貴人の亡霊が夜な夜な、この辺りに出現するという物騒な噂も真しやかに流れているそうだ。
 純白の夜着を纏う陳貴人の腹部は大きくせり出していて、しかも、その突き出た腹の辺りが鮮血に染まっているという。最初に誰が言い出したのかまでは知り得ないが、この殿舎の近くを通る時、女官は昼間でも一人では通らない。
 ましてや、真夜中ともなれば、貴人の亡霊を怖れて、誰一人として近づきたがる者はいない。まあ、文龍にとっては、仕事がやりやすくなって、かえって助かるともいえる。
 文龍は緩くかぶりを振る。どういうわけか、今夜は妙に物想いが多いようだ。雑念はいつも棄てて任務にかかるようにと上官からも厳しく言われているというのに。
 文龍は微苦笑を刻み、一人で頷いた。
 そうだ、凛花のためにも必ず生きて帰ってこなければならない。まだ起こりもしない未来を憂えるよりも、一つ一つを乗り越え、今日という一日を無事に過ごしてゆくことの方がよほど大事ではないか。
―凛花、私を守ってくれ。
 もう一度、凛花から贈られた虎目石を撫で、文龍は素早い身のこなしで床下から這い出た。
 文龍がこの殿舎の床下に潜んでいたのには理由があった。まず、ここがネタン庫に最も近く、その上、殿舎は無人で、がら空きだということ。ひそかに科人たちを待つには絶好の隠れ場所といえた。
 辺りに人気は全くなかった。丁度、四半刻ほど前、見回りの内官二人が雪洞を持って殿舎の側を通ったのを確認している。今から少なくとも一刻は誰もこないだろう。
 生まれたばかりの細い月が夜空に頼りなげに浮かんでいる。いや、浮かんでいるというよりも、辛うじて引っかかっているように見える。今回の任務は今まで経験してきた仕事の中でも、とりわけ危険で難しいものになることは最初から判っていた。
 何しろ、時の右議政が事の首謀者なのだ。そう、右議政朴真善といえば、あの卑劣な男朴直善の父親である。才能もなくたいした働きもないのに、二十五歳の若さで刑曹参知にまでなったのは、ひとえに傑出した父親の七光りだと誰もが知っている。噂では、数年前に受けた科挙においても、彼の父親である右議政が裏で大金を積み、不正に合格させたのだと囁かれていた。
 もっとも飛ぶ鳥を落とす勢いの右議政にそのようなことをあからさまに言う勇気ある者はどこにもいない。右議政やその息子が幅を利かせているのも、ひとえには、右議政の長女が中殿、つまり時の王妃であることにも関連している。
 しかし、王妃は子宝に恵まれず、外孫を世子に祭り上げて、いずれは国王の外祖父として政を欲しいままにしようとした目論見は破れた。
 陳貴人の死にまつわる事件の際、文龍が王妃の名を公にしなかったのは何も王妃一人の体面を考えたからではない。王妃の背後に控える後見、即ち外戚の朴真善の存在があまりに大きすぎたからでもあった。
 現国王清宗はけして暗君ではないが、生来病弱で、更に気が弱い。真善の専横を内心では苦々しく思いながらも、結局、肝心の右議政の前に出ると何も言えなくなってしまうのだ。国王ですらその有り様ゆえ、議政府の三政丞のうちの最高職領議政、更に右議政よりも格上のはずの左議政のどちらもが真善に遠慮して、単なるお飾りに成り下がっている。
 今や朴真善の独壇場であった。政はすべて真善が取り仕切っている感がある。真善の専横はおさまるどころか、日々極まり、干害や水害によって不作の年も租税は一方的に厳しく徴収され、疫病が蔓延しても何の手立ても打たず、救済の手は差し伸べない。
 民の怨嗟の声はかつてないほどに募り、右議政に対する不満はいつ暴動が起きてもおかしくはないところまで膨れ上がっていた。
 かといって、それだけで義禁府が動くはずがない。事の起こりは、国王への上奏文に密告めいた書状が紛れていたことから始まった。
 数ヵ月前に遡るある日、国王の住まう大殿(テージヨン)の壁に矢が射かけられた。もしや国王殿下暗殺では? と、誰もが浮き足立ち、王宮内は一時、騒然としたが、その件は不思議なことに、数日でおさまった。
 というのも、矢には小さな紙片が巻き付けられていて、それは王に対する上奏文であったからだ。文の内容は、
―畏れ多くも国王殿下を蔑ろにし、政を欲しいままにする右議政に不正の兆しあり。ネタン庫の財宝を右議政がひそかに横流ししております。
 と綴られ、更に次には右議政と結託して横流しした商品を町で売りさばいている商人の名まで記されていた。密告者は更にあるべからざることを告発していた。