小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~2

INDEX|6ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

「凛花?」
 文龍がすかさず脇から支えてくれたお陰で、凛花は無様に縁廊から転落せずに済んだ。いや、まともに落ちれば、大怪我どころでは済まないかもしれない。
「大丈夫なのか? 今夜は色々なことが一度にありすぎて、疲れたのだろう。もう夜も遅い。私もそろそろお暇するゆえ、そなたは床(とこ)に入って、ゆっくりと寝みなさい」
 文龍の声が遠くから聞こえるような気がした。
 そう、今夜は延びに延びた文龍と凛花の祝言の日がついに決まった夜だ。めでたいはずの夜なのに、何ゆえ、よりにもよって満月が一瞬でも血の色に染まって見えたりしたのだろう―。
 いや、文龍の言うように、自分は多分、疲れているのだ。そのせいで、ありもしない幻覚を見たにすぎない。
 そう我が身に言い聞かせながらも、凛花の耳に幼い日に聞いた乳母の声が響く。
―あまりにも美しすぎるものには魔が潜んでいると昔から申しますよ、お嬢さま。
 凛花は忌まわしい考えを振り払うように、小さく首を振る。
 傍らに並んだ文龍にそっと肩を抱かれ、凛花は眼を瞑り、庭ですだく虫の声にひたすら心を傾けようとした。
 月は相変わらず無表情に、そんな凛花を見下ろしている。
   
  策謀

 宮殿の夜は存外に明るい。広い王城内では、随所で篝火が焚かれ、夜を徹して赤々と闇を照らす。見回りの兵士たちが定時に巡回し、不法な侵入者や怪しい者などがいないかを厳重に確認している。
 しかし、やはり殿舎と殿舎の間の狭い通路や人気のない場所など、ところによっては闇と闇が重なり合い、更に深い闇を作っている。なるほど、その深すぎる闇をじいっと見つめていると、闇が凝(こご)って人の形を取り始めるように見えなくもない。
 宮城には、幾多の政変や陰謀で陥れられ、無実の罪を着せられ犠牲になった人々の魂がさまよっている。その数は殿舎の壮麗な甍の数よりも多いとさえ謂われているのだ。
 王宮に伝わる怪談も寝ぼけた内侍(ネシ)や女官たちの見間違いだろうが、無念の死を遂げたあまたの犠牲者の怨念があちこちに漂っていると考えれば、満更、その中の一つくらいは真実であるかもしれない。
 今、皇文龍はとある殿舎の床下に蹲っていた。この殿舎は、かつては無念の死を遂げた国王の妃、陳(チン)貴人(キイン)の住まいであった。今は棲まう人もおらぬ空き部屋ばかりとなり、昼間でも森閑と静まり返っている。
 考えてみれば、陳貴人も王宮という伏魔殿で怖ろしい謀の犠牲となった一人である。王妃と貞嬪の共謀によって、毒を飲まされ、折角授かった国王の御子を流産させられた挙げ句、当人の貴人も亡くなったのだ。
 文龍の調べでは、貴人は間違いなく毒を飲まされていた。貞嬪の手先となって動いた女官が自ら証言したのだから、間違いはない。
 貞嬪の命で、確かに貴人の膳に毒を混入させた、と。第一、呪いだけで胎児を流産させたり、人を殺したりできるはずがない。
 怖ろしいのは人の怨念ではなく、怨念に突き動かされて悪に―殺人に手を染めてしまうことだ。文龍は常日頃からそう思っている。憎むだけでは、人は殺せない。しかし、殺したいと思うほど憎んだその時、人は時として怖ろしい殺人鬼にもなる。
 恐らく誰の中にも、人を憎む心は存在するだろう。しかし、世の中の大部分の人は幾ら嫌いな相手でも、実際に殺すところまではゆかない。ただ、心で相手を憎むだけだ。鬼になるかどうかは、憎悪の烈しさで決まるのではなく、むしろ、ふっとした隙に心に魔が囁きかけるのではないか。
―お前の欲しいものを手に入れるためには、あやつを殺せ。あやつさえいなくなれば、邪魔者はいなくなり、欲しいものは手に入るだろう。
魔の声に唆され、ごく平凡な人間がある日突然、豹変し殺人鬼になる。
 義禁府に勤務してきた文龍は、そんな人たちを数多く眼にしてきた。自ら捕らえ、尋問した罪人たちの大半は、根っからの極悪人ではなく、むしろ、平凡な人間だった。しかし、何かの拍子に魔の囁きに負けて、自らの手を血の色に染め、罪を犯したのだ。
 一旦、罪に染まってしまえば、後はただ堕ちてゆくだけだ。と、これも文龍は経験で知っている。人を殺したいほど憎むことと、現実に殺人を犯すことは全く別で、両者の間には大きな壁がある。それが理性というものだ。
 しかし、ひとたび立ちはだかる壁を越えて向こうに行ってしまえば、人はもう悪事に手を染めることに何の躊躇いもなくなってしまう。つまり、一人殺すのも二人殺すのも同じこと―そういう心理だ。中には、殺人によって残忍な歓びを得ることを憶え、快感を得たいがために敢えて二度、三度と罪を犯す者もいた。そうなると、最早、正気とは言い難い。
 いや、一人にせよ二人にせよ、他人の生命を奪うことの理不尽さを忘れたときから、既にその者は正気を手放しているのだろう。
 文龍は腰に佩いた長剣に触れた。今夜は義禁府の正式な制服ではなく、ごく動きやすい兵士としての服装である。簡素な上衣とズボンの上に略式の鎧を付け、頭には翡翠の玉の塡った頭飾りを巻いている。
 剣の柄に付けた飾りに触れ、文龍はハッとした。獣の瞳を思わせるかのように光る筋の入った茶褐色の玉に長い白房が下がっている。
―これは虎目石(タイガーアイ)だそうです。ご武運だけでなく、文龍さまご自身の身をも守ってくれる強い石ゆえ、必ず肌身離さず身につけておいて下さいませ。
 去年の秋、凛花がそう言って文龍に贈ってくれたものだ。
―凛花。
 文龍は、しばし勤めのことも忘れ、愛しい恋人に想いを馳せる。
 泣き虫で、お人好しで、正義感の人一倍強い許嫁は、どこか自分に似ているかもしれない。考えてみれば、自分たちは似た者同士だ。
 文龍自身も回りからは落ち着いていると思われているようだが、危険を顧みず義憤に駆られて行動してしまうことが結構多いのだ。
 世の中には全く対照的な方が上手くいくとも言われているけれど、文龍と凛花が強く惹かれ合っているのは、多分、互いに似た部分―魂の奥深いところで共鳴し合っているものがあるからに違いない。
 結婚してしまえば、似た者夫婦になるだろう。いや、自分は凛花の泣き顔には弱いから、凛花に泣かれると、どんな我が儘でもきいてしまいそうだ。もっとも、凛花は文龍を本当に困らせるような無理難題など、けして口にしないだろうが。
 とにかく、妻に甘い良人になるのだけは必定といったところか。
 来年の春が待ち遠しくてならない。凛花を一日も早く、この腕に抱き、自分のものにしたい。あの白いすべらかな雪膚に思う存分触れ、華奢な肢体に凛花が自分の所有だという証を刻みたい。
 文龍は無意識の中に、左手に触っていた。凛花に贈った蛋白(オパー)石(ル)の指輪と一対になったもの。これを見ると、自分と凛花がどれだけ離れていても、一つに―見えない糸で結ばれているのだと信じられる。
 凛花のためにも、今回の任務も無事に遂行しなければならない。義禁府の仕事には常に危険が伴う。義禁府で罪人を取り調べている分には支障はないが、罪人捕縛までの過程は実に辛酸を極め、危ない橋を幾度も渡るのだ。