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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~2

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―私から逃げようとするな。私をけして怒らせるでない。私は欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばぬ。
 あの男の眼。まるで魂の暗い秘密まで見通せるようだった。蛇のように底光りのする冷たいまなざしで凛花の身体を舐め回すように眺めていた。
―怖い。
 あの陰惨な雰囲気を纏いつかせた男にたとえ指一本でも触れられると考えただけで、恐怖に叫び出しそうになってしまう。
 凛花は震えが止まらなかった。
 文龍が何度も頷いた。
「当たり前だ。あの男の思うようにさせるものか。凛花は私が守る」
 文龍は片膝をつき、うつむく凛花の頬にそっと手を当てて、こちらを向かせた。
「折角の美しい顔が曇っている」
 その切迫した響きで、凛花は陰鬱な物想いから現実に引き戻された。
「そなたには笑顔が似合う。いつも笑っていてくれ」
 文龍が凛花の黒髪をひと房掬い、そっと唇に押し当てる。
 そういえば、十日ほど前に朴直善に再会した時、あの男も凛花の髪に触れたのだ。直善は髪に口づけたりはしなかった。
 それでも、ほんの少し触れられただけで、身体中が粟立ち、ヒヤリとしたものが背筋を伝った。なのに、今、文龍にこうして髪に口付けられ、優しく手で梳かれていても、むしろ幸せな気持ちになる。
 それは、やはり凛花が文龍を慕っているからだろう。
 文龍は凛花の髪をずっと撫で続けている。その手つきがあまりにも優しすぎて、凛花の堪えていた感情が爆発した。内部で堰が切れたかのように、鬱積した苦悩と怒りが涙となって一挙に溢れ出した。
 凛花の身体が小刻みに震えている。
 文龍は困ったように頭をかいた。
「そなたが泣くと、私は、どうふるまえば良いか判らなくなる。良い歳をした大人でも、ほら、このとおり、女を慰める言葉一つ、口にできぬ無粋な男だ」
 わざとおどけて見せているのは、文龍なりの優しさであり労りであった。
 彼の持つ彼らしい優しさが伝わってきて、余計に涙が溢れてくる。だが、文龍は泣き止まない凛花に困っている。
 文龍の優しさに応えるためにも、ここは泣き止まなければならない。後から後から溢れてくる涙を堪え、凛花は懸命に微笑もうと試みる。しかし、それは失敗に終わった。
 凛花の顔に浮かんだのは、どう贔屓目に見ても泣き笑いにしか見えない中途半端な表情だ。
 凛花の奇妙な表情に、文龍が胸を衝かれたようだ。
 しばらく思案するように眼を伏せていた文龍がふと明るい声音になった。
「だが、こんな朴念仁でも、記念すべき夜には何か贈らねばと思って、これを持ってきた」
 〝どうだ?〟と、まるで幼子が母親に得意技を披露するように自慢げに懐から小さな牡丹色の巾着を取り出す。
 おもむろに差し出された小さな巾着を開くと、涼やかな音を立てて手のひらに零れ落ちてきたのは二つの指輪であった。どうやら対の指輪らしく、一つは男性の指に合うくらいで少し大きめ、もう一つは凛花の細い指に丁度ぴったり塡(はま)るくらいのものだ。
 透明に近い乳白色の石は蛋白(オパール)石だろうか。
 凛花が指輪に見蕩れていると、文龍が小さい方の指輪を凛花の指に嵌めてくれた。
「素敵」
 凛花は不覚にもまた泣きそうになり、慌てて眼裏で涙を乾かす。
「でも、文龍さま。何故、今夜、この指輪を私に?」
 凛花が訊ねると、文龍が笑った。
「今夜は記念すべき夜だからと言わなかったか?」
「あ―」
 凛花がやっと得心がいったと言いたげに、胸に片手を当てた。
「今宵は待望の祝言の日取りが決まった夜だ。これが記念すべき日でなくて、何と呼ぼう」
「そう、ですね。そのとおりです」
 今更に頷く凛花をちらりと見て、文龍はこれもわざとらしい溜息を大仰についた。
「やれやれ、薄情な女(ひと)だ。私は今宵を愉しみに一日千秋の想いで待ち望んでいたというのに、肝心の想い人はどうやら私と同じ心持ちではなさそうだね。これは実に憂えるべき事態だよ、凛花」
 茶目っ気たっぷりに言い、文龍は小さく肩を竦めた。
 優しい男(ひと)だ。こんな男にめぐり逢えて、これから先の長い生涯を共に歩いてゆける自分は何と幸せ者であることか。
 文龍が側にいてくれれば、他は何も要らない。凛花のすべてが、この男と共にある。
 また涙が溢れそうになるのを堪えていると、何を思ったか文龍が立ち上がり、部屋を大股に横切ってゆく。
 呆気に取られて見ている前で、彼は入り口の扉を開け、縁廊に佇んだ。凛花の部屋は申家の屋敷では奥まった一角に位置しているが、この縁廊づたいに歩いてゆけば、父の暮らす棟へと続いている。
 庭へと続く短い階(きざはし)を降りれば、部屋の前にはもみじあおいが今を盛りと咲いているはずだ。五弁の鮮やかな紅色の花びらを持つ花は、凛花のお気に入りだ。
 もっとも、正直に白状してしまえば、元々、もみじあおいが好きだったわけではない。二年前、文龍と初めて知り合った当時、彼の誕生日がもみじあおいの咲く頃だと知り、以来、好きな花の一つになったのだ。
「凛花、来てごらん」
 呼ばれて後をついてゆくと、文龍は胸の前で軽く腕を組み、空を見上げていた。
 暦がやっと十月に入ったばかりの夜は、庭から虫の音が潮騒のように聞こえてくる。
 朝夕はかなり気温が下がるが、日中はまだまだ汗ばむほどの陽気になる微妙な季節だ。
 紫紺の空には幾千の星々が銀の粉をまぶしたように煌めき、ひときわ煌々とした光を放つ満月が頭上に昇っていた。
「月が随分と近いね。手を伸ばせば、真に触れられそうだ」
 文龍は眼を細めて丸いふっくらとした月を眺めている。確かに、今夜の月はいつもにもまして、その輪郭や表面に刻まれた翳までがくっきりと際立っている。
 その時、凛花は我が眼を疑った。慌てて何度も手のひらで眼をこする。
 月が、紅かった。ほんの一瞬だけれど、赤児を宿した幸せそうな妊婦のように肥えた月が真っ赤に染まって見えたのだ。
 何度か眼をこすっては見直している中に、月は元どおり、蒸し饅頭のような色を取り戻した。
 あれは血の色。禍々しい血の色だ―。
 傍らの文龍が訝しげに問うてくる。
「どうした? 眼にゴミでも入ったのか」
 凛花は首を振った。
「ええ。どうも、そのようです」
 凛花は応え、もう一度、月を見る。
 円い月は何事もなかったかのように、黄味餡のような色に染まっていた。
 そういえば、幼い日に添い寝をしながら乳母が語ってくれたのは、あれは美しい月の話であった。
―あまりにも美しすぎるものには魔が潜んでいると昔から申しますよ、お嬢さま。
 例えば、この世のものとも思えぬほど美しい満月が曼珠沙華の色に染まって見えるときは、近々、大きな禍が起こる凶兆だ。美しいものに潜む類稀な美貌を持つ魔の者が知らせにくるのだ。
 乳母は、確かにそう言っていた。
 曼珠沙華といえば、もみじあおいと同じくこの季節に花開く秋の花である。あの頃は幼すぎて、あまりあの言葉の意味を深く考えたこともなかったけれど、曼珠沙華の色は間違いなく死人の色、死を意味する真っ赤な血の色だ。
 もみじあおいが夜陰にひっそりと咲いている。いつもは大好きな花の色までが曼珠沙華と同じ鮮血の色に見えてくる。
 凛花は思わずクラリと軽い眩暈を憶えた。