暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1
男がふっと視線を逸らした。
文龍は静かな声音で問うた。
「これだけの貴重なるご意見を拝聴したからには、せめて貴殿の名を知りたい」
その瞬間、相手の男が辛うじて体勢を立て直したのが判った。
男はわずかに眼をまたたかせてから、幾度も頷いた。
「ホホウ、温厚篤実で知られる文龍どのも人並みに皮肉をおっしゃるのですな。確かに、まだ名乗っていなかったのは、こちらの失態でした」
馬鹿丁寧な口調で言い、男は勿体ぶったように間を開けた。
「私は朴(パク)直(ジク)善(ソン)、ただ今は刑曹で参(チヤム)議(イ)をしております」
やはり、この男は文龍よりも上の官職だった。刑曹といえば、六曹の一つだが、参議は長官である判書、次官参(チヤン)判(パン)に次ぐ三番目の位に相当する。位階でいえば、正三品だ。
「朴氏といえば、お父君は右議政の朴真善(チンソン)どのですね」
相手に倣い、文龍も口調を改めた。
「先にそなたの父御の名を出したのは私ゆえ、このようなことを申すのは筋違いかもしれぬが、皇どの。この際、互いの父のことは忘れましょう。私は、貴殿と一人の男対男として話したい」
「それは―、どういう意味でしょう」
ここで、直善の声が別人のように低くなった。
「あの娘を譲ってくれ」
「なっ」
文龍が言葉を失った。
「十日ほど前、町であの娘を見かけた。女にとしては、たいした跳ねっ返りだが、逆にそれがいたく気に入ったのだ。むろん、ただでとは言わぬ。そなたには私の妹の一人を嫁がせよう」
「断る」
文龍は憤怒に燃える眼で直善を見上げた。
直善の整った貌にからかうような笑みが閃く。
「私の妹は皆、美人揃いだと世間でも評判だ。我が家門と婚姻関係を結ぶことは、そなたにもそなたの父上にも損はないと思うが?」
「たとえ、そなたの妹がどのような美女であろうが、私は凛花以外の女を娶るつもりはない」
フムと、直善は長い指を顎に当て、思案する仕種を見せた。
「それでは、致し方ない。本意ではないが、私はあの娘を攫ってくるしかなさそうだな。そなたと違って、私は武芸にかけては今一つ自信はないのだが、これでも多少の才覚はある。ここは一つ、良い策を考えてみるとしよう」
「―!」
握りしめた両の拳が震える。
「攫うなどと、何を馬鹿な。そなたは右議政の嫡男であろう。名門の子息が町のならず者紛いの真似をする気か?」
直善の癇に障る笑い声が響いた。
「欲しい女をモノにするのに、手段など選んでいられるか。良いか、文龍。私は、そなたに妥協案を提示したのに、貴様はそれを真っ向から断った。私としては、妹を嫁にやり、そなたほどの男を味方に引き入れるのも悪くはないと思っていたのだがな」
「その前に、肝心の凛花の心はどうなのだ? 凛花は物ではないし、ましてや男の玩具ではない。欲しいからといって、攫ってきて自分のものにしてしまえば良いというわけではなかろう」
文龍は努めて冷静を装いながら、言葉を紡いでゆく。
直善が口の端を歪めた。なまじ整った容貌だけに、片頬を歪めた笑いは何とも凄惨だ。
「女など、何度か抱いてやれば、すぐに靡いてくる。それにしても、義禁府でも堅物で知られている皇どのは果たして愛しい許嫁をどれだけ満足させてやっているのか、私としては興味がある。その歳で妓房(キバン)にも上がったことがないと言われるほどのそなたのことだ、まさか、まだ手を付けていないとは言うまいな」
「き、貴様ッ」
文龍は思わず直善の衿許を両手で掴み上げていた。
細身の男は、まるで猫のように文龍の逞しい手で持ち上げられる。どうやら、武芸の腕はからきし駄目だという本人の言い分は謙遜ではなく、真実のようである。
直善の身体が宙に浮いている。文龍よりも上背のある直善が文龍に胸倉を掴まれ、軽々と持ち上げられている図というのは、何やら滑稽でもあった。
「このような真似をして、そなたの父が無事で済むと思うか?」
先刻、互いの父のことは忘れて男同士として話そうと言ったはずだ。その口先も乾かない中の、この科白である。朴直善という男の人間性―その卑劣さが知れるというものだった。
文龍は黙り込み、直善の身体から手を放した。こんな男、一発や二発、殴ってやっても罰(ばち)は当たらないだろう。しかし、そのような愚かなことをすれば、文龍だけではなく父秀龍や下手をすれば、凛花の父にまで迷惑がかかってしまう。
直善の異様な輝きを帯びた瞳は、この男の尋常でない執念深さを物語っている。
直善は忌々しそうに僅かに乱れた衿許を整えた。
「私は欲しいものは必ず手に入れる。そこまで頭に血が上るほど惚れている女ならば、横から攫われぬように、せいぜいしっかりと捕まえておけ」
棄て科白にも思える言葉を投げつけ、直善は去ってゆく。その脚取りは実に悠々としていて、何事もなかったかのようでさえあった。
あの男は本気だ―。
文龍は握りしめた拳が白くなるまで力を込めた。
さしずめ、剣の勝負でいえば、先刻は文龍の勝ちということになる。
―良いか、文龍。相手からけして先に眼を逸らせてはならぬ。
父は、先に眼を逸らした方が負けると言った。
だが、勝ち負けなどが何になるのか。凛花は男の都合であちらこちらとたらい回しにされる玩具(おもちや)ではない。
あの卑怯な男は、凛花をただ欲望のままに手に入れ、慰み者にしようとしているのだ。文龍には、その身勝手さが許せない。仮に直善が凛花を真剣に愛し、凛花もまた文龍よりも直善に心を移したのだというのなら、文龍は潔く身を退くだろう。
文龍が何より大切なのは、凛花の気持ちだ。正義感が強くて、困った者を見過ごしにはできない凛花の性格は危なかしくって仕方ない。
側で見ている文龍の方が凛花を放っておけなくて、つい手を差しのべてやりたくなるのだ。あの笑顔が曇るようなことがあってはならない。つい守ってやりたくなる頼りなさも、正義感に溢れる優しさも含めて、文龍は凛花を愛しているのだ。
朴直善にも宣言したように、妻にと望む女は、最早、凛花以外には考えられなかった。
凛花の弾けんばかりの笑顔を思い出しながら、文龍は取り止めもない物想いに囚われていた。
もみじあおいの庭
けして狭くはない室に、重い沈黙が降りている。
文龍は小さく息を吸い込み、その静寂を破った。だが、言葉が後に続かない。
文龍と向かい合う形で上座に座したソクチェが訝しむような視線を向けるのが判った。
ここは申ソクチェの屋敷、当主であるソクチェの居室である。かれこれ半刻ばかり前、文龍はソクチェを訪ねてやってきた。いや、表向きはソクチェを訪問したのだが、心では、やはり恋人凛花の顔を一刻も早く見たいと逸っている。
流石に未来の舅の前で、本心をあからさまにするわけにもゆかなかった。
ソクチェは人の良い好人物で、生き馬の眼を抜くといわれる駆け引きが当たり前の朝廷での出世はけして順調ではなかった。
作品名:暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1 作家名:東 めぐみ