暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1
凛花は重い息を吐き出し、ゆっくりと歩き出した。心は鉛を呑み込んだかのように重く沈んでいる。ほんの一刻前、意気揚々と屋敷を抜け出したときの高揚した気分が嘘のように思えた。
その日、皇文龍はいつものように義禁府に出仕していた。現在、文龍は従五品都(ト)事(サ)に任じられている。かつて文龍の父秀龍もまた義禁府の様々な官職を歴任し、ついには義禁府長と兵曹判書を兼ねるまでの地位に昇った。
今は勤務先を兵曹から礼曹に替えたが、若い砌と変わらず国王殿下に忠勤を励んでいる。
夕刻、西の空に茜色の雲がたなびき始める刻限になると、王宮内のあまたの殿舎の甍が黄金色(きんいろ)に輝く。その日も、文龍は定時で勤めを終え帰路についた。もっとも、いつもこのように早くに帰れるわけではなく、というより、この時間に帰宅できる方がむしろ珍しい。
義禁府は重罪人を王命によって捕縛し、取り調べる機関である。従って宮殿に詰めての事務仕事よりは町に出て極秘調査に従事する方が多いほどなのだ。
文龍が義禁府を出て殿舎と殿舎を繋ぐ石畳を歩いていたときのことである。向こうから、ゆっくりと歩いてくる人影が映じた。朝廷の臣下は皆、朝服―つまり制服が定められている。上から位階によって紅、蒼、緑という風に決められており、まだ中級武官にすぎない文龍は蒼色の官服着用を義務づけられていた。
とはいえ、義禁府の武官たちはこの改まった官服よりは、動きやすい義禁府独自の制服を好んで身につけた。官服を着用する機会の方が少ない。文龍も同輩たちの例に洩れず、そのときも義禁府の制服を纏っていた。
向こうから歩いてくる人物も蒼色の官服を着ている。どうやら、位階も歳格好も自分と似たり寄ったりだと遠目にも判った。が、同じ色の服とはいえども、実のところ、蒼色を許されているのは正三品から従六品までの位階を持つ官吏で、その層も幅広い。相手が同じ色だからと迂闊に馴れ馴れしい態度は取れない。
例えば従六品の者にとっては正三品の官吏は、はるかに上の上官なのだ。ここは道を相手に譲った方が賢明だ。文龍はそう判断して脇に寄り、軽く黙礼した。
そのまま相手は文龍の前を素通りしてゆくかに見えた―。と思えたその時。
すれ違おうとした相手がつと歩みを止めた。
「そなたが彼(か)の皇文龍どのか?」
その声に面を上げた文龍は、わずかに眼を見開いた。
けして身の丈が低い方ではない文龍に比べても、更に頭一つ分高い男はかなりの長身なのだろう。
「貴殿は私をご存じなのですか?」
文龍が控えめに問うと、相手の男は整った容貌に謎めいた笑いを浮かべた。
「文龍どのの名を知らぬはずがない。つい先頃、国王殿下のご寵愛第一のお妃をお救いして、その勇名を轟かせたばかりではありませんか」
二年前、後宮内で実に陰惨な事件が起こった。国王清(チヨン)宗(ジヨン)の寵妃の一人が流産の末、肥立ち良からず亡くなったことから端を発したものだった。その妃を別の妃がひそかに呪っていたという由々しき噂が真しやかに流れ、宮殿内でも寄ると触ると、その話で持ちきりだった。
その妃というのが清宗の寵愛を専らにしている淑嬪であり、淑嬪(スクビン)に呪詛された挙げ句に亡くなったのが貴人(キイン)の位を得た妃であった。噂だけならまだしも良かったのに、あろうことか、亡くなった貴人の部屋の床下から呪いの込められた人形まで見つかった。
豪奢なチマチョゴリを着せられたその人形の身体には無数の針が刺され、思わず身の毛がよだつほどの怨念が伝わってきたという。その話は更に女官たちの口を経て王城内に広まり、ここに至って流石に清宗も淑嬪を庇い切れなくなった。
決定的証拠となったのは、淑嬪の居室に飾っていた螺鈿細工の箱から同様の人形三体が見つかったことである。ご丁寧にチマチョゴリまで着たその人形は誰が見ても、貴人の部屋の床下で発見されたのと全く同じものであった。
しかも、淑嬪にとって不幸なことに、貴人が亡くなってから一年に満たない間にも同様の事件が続いていた。即ち、清宗の寵を受けて懐妊した妃や女官が立て続けに三人も流産し、その中の一人は貴人同様、亡くなったのだ。
淑嬪の部屋で見つかった人形の数と貴人を除いて流産した妃たちの数が一致したことも淑嬪の立場をますます悪化させ、その容疑を揺るぎのないものにしてしまった。
―殿下(チヨナー)、このままでは後宮内に示しがつきませぬ。内命(ネミヨン)婦(プ)のこととはいえ、畏れ多くも殿下の御子を宿した妃を呪詛するとは即ち殿下に対する反逆罪も同様です。どうか淑嬪の身柄をを義禁府に引き渡し、すみやかに法の裁きを受けさせて下さいませ。
清宗の正妻である中(チユン)殿(ジヨン)―王妃自らが王に迫ったこともあり、清宗はやむなく王妃の意を入れた。淑嬪は義禁府に連行され、厳しい尋問を受けることになった。
淑嬪は王との間に翁(オン)主(ジユ)三人をあげている。三人の姫の生母である淑嬪に対してはいささか厳しすぎる扱いだとの声も上がったものの、気の弱い国王は王妃に頭が上がらない。
誰もが事のなりゆきを息を呑んで見守った。最悪の場合、淑嬪は位階を剥奪され、廃妃となる可能性も考えられた。
しかし―。この事件は意外な形で結末を迎えた。淑嬪の取り調べを担当した義禁府の武官はかねてから、この事件の奇っ怪さを怪しんでいた。まず、証拠がなさすぎる。国王の子を宿した後宮の女が続けて流産したからといって、それが呪いによるものだと決めつけるのは、あまりにも早計だ。
状況証拠があるとはいうものの、これだけですぐに淑嬪の仕業だと断定できるものではない。誰かが意図的に淑嬪の失墜を狙って画策したのかもしれない。
淑嬪は後宮においても、王妃に次ぐ立場であり、清宗の寵愛を一身に集める第一の寵妃だ。あまり大きな声では言えないが、後宮で今、最も時めいている淑嬪は、正室の王妃よりも重んじられていると専らの噂だ。
後宮は美しき女人たちがただ一人の男国王をめぐって熾烈な争いを重ね、妍を競い合う場所でもある。王の熱愛する淑嬪失脚を願う者は多いに違いない。
そのように考えた彼は再度、極秘に後宮内の人物相関図を調べ直した。
その結果、淑嬪はむしろ陥れられた気の毒な立場であり、淑嬪を重罪人に仕立て上げようとしたのは他ならぬ王妃と今一人の妃、貞(ソン)嬪であることが判った。
嬪というのは王の側室の位階の一つであるが、王妃に次ぐ高い地位だ。王妃に子はなく、貞嬪には翁主一人しかいない。病弱な世子(セジヤ)の生母は既に病死しており、こちらは脅威にはならないが、もし仮に淑嬪がこれから先、王子を生み奉るようなことがあれば、王は必ず淑嬪の生んだ王子を次の世子に立てるだろう。
清宗の淑嬪への寵愛は、そのように勘繰られても仕方ないほど厚く、並々ならぬものがあった。淑嬪には目下、王子はいないが、この先、王世子の生母という立場にでもなれば、淑嬪の立場はよりいっそう強固なものになってしまう。
作品名:暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1 作家名:東 めぐみ