暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1
凛花の背をヒヤリと冷たいものが走った。何故、この男がそこまで―凛花の許婚者のことを知っている?
凛花の動揺を見透かしたかのように、男が冷笑を刻んだ。
「あまり私を見くびらないで欲しいものだ。剣の腕は絶望的だが、こう見えても、頭は回る方だと自負している」
「調べたの!?」
凛花は信じられないといったように首を振った。
「皇文龍の父親は礼(イエ)曹(ジヨ)判(パン)書(ソ)か。左副承旨の娘が礼曹判書の嫡子に嫁ぐのだから、確かに玉の輿には違いあるまい。文龍の父親秀(ス)龍(ロン)は今は文官だが、元々武官上がりで、礼曹判書の前は兵曹(ピヨンジヨ)判(パン)書(ソ)に就いていた。兵曹判書といえば、軍部を掌握する要職、従って、いまだに軍の中にも彼に心を寄せる者どもが多いと聞いている」
男は謳うようになめらかな声で言い、意味ありげな流し目をくれた。
「文龍もいずれは、それなりの官職を得るだろう。そなたの望みは何だ?」
「何を言っているの? あなたの言いたいことが私には判りません」
良人と妻が互いを尊重し、必要とし合う夫婦関係―、凛花は形だけの家族や夫婦を求めてはいない。その点、皇文龍は理想的な恋人ともいえた。
この縁談は当時の両班同士の結婚の例に洩れず、恋愛結婚ではない。文龍の姉の嫁ぎ先―捕盗庁(ポトチヨン)の長官の妻―、文龍の姉には姑になる人が口を利いてくれたものだった。
しかし、文龍の誠実で穏やかな人柄は凛花を強く魅了した。文龍と一緒にいると、まるで温かな春風に吹かれているような安らぎを憶える。
彼の女性を尊重し、その言葉にも耳を傾けるという一面も好もしい。恋愛ではないが、文龍とであれば、凛花が夢見るような温かな家庭が築けると確信していた。
「私が文龍さまとの結婚を決めたのは、あの方の人柄を好ましいと思ったからです。文龍さまをお慕いしているからこそです。それでは、理由になりませんか?」
男が馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「そなたに惚れていると言う私の前で、ぬけぬけと他の男を慕っていると申すとは」
凛花は怒るというよりは、むしろ呆れた。いきなり現れて、凛花に惚れていると言い出したこの男は一体、何なのか?
「のう、凛花。私にはまだ正室がおらぬ。縁談は幾つも来ていて、両親が気に入った者がないでもないが、私自身は、これといった娘はおらんのだ。むろん、最初は、そなたを正式な妻にまでするつもりはなかった。だが、そなたという女を知れば知るほど、欲しくなってきた。凛花、私のものになれ。側室と言わず、正室にしてやろうではないか。我が父はいずれ領(ヨン)議(イ)政(ジヨン)にもなる方だ。皇文龍に嫁ぐよりは、私の妻になった方が先が拓けるというものだぞ」
凛花は唇を痛いほどに噛みしめた。
「たとえ天地が真っ逆さまになろうと、私があなたに嫁ぐなどあり得ません」
これほどの屈辱を受けたのは生まれて初めてのことだ。この男は、凛花が世間的な立場や地位だけで生涯の伴侶を選ぶような女だと思っているのだ。
つい先刻、幾ら高価でも中身のないつまらない品よりは、安くても中身の充実したものが良いとはっきり告げたばかりなのに。
「意地を張っていられるのも今のうちだ。今に、そなたは自分の方から抱いて欲しいと私にこいねがいに来る。私はこれまで自分の欲しいものを他に譲ったことはない。他に奪われる前に、必ず我が物にしてきた。今回もそれは例外ではない」
底冷えのする双眸が酷薄そうに眇められ、不躾に視線が凛花の上を這う。艶やかな黒髪からゆっくりと、すぐ下の豊かな膨らみ、すらりと伸びた肢体へと降りてゆく。別に指一本触れられているわけではないのに、まるですべてを剥ぎ取られ、一糸纏わぬ素膚を直接撫でられているかのような。
普段の凛花なら、その失礼な態度を指摘するはずだったが、男のまなざしのあまりの不気味さに鳥肌立つほどの恐怖を憶えているばかりだった。
最早、凛花は何も言うすべは持たず、恐怖の滲んだ瞳で男を見つめていた。
凛花の変化―怯えに気づき、男は片眉を上げ、ゆっくりと手を伸ばした。
男が動く度に、甘ったるい空気が漂ってくるのに、凛花は閉口した。彼自身のパジチョゴリに染みついている香のかおりが原因らしい。まるで女が好みそうな匂いは、凛花に言わせれば、およそ男らしさとはかけ離れた趣味の悪いとしか言えない代物である。
まだ嫁ぐ前の凛花は長い髪を後ろで一つに編み、背中に垂らしている。頬にひと房、乱れた髪が垂れていた。丁度、男の指先は凛花のほつれ髪の手前で止まった。触れるか触れないか、ぎりぎりの危うい距離である。
「私から逃げようとするな。私をけして怒らせるでない。私は欲しいものを手に入れるためには、手段を選ばぬ。できれば、そなたを苦しめたくはないのだ。判ってくれ、凛花」
男の手が凛花の髪にまさにほんのひと刹那、触れたその瞬間、凛花は身を翻した。
まるで小鳥が捕らえようとする心ない狩人から逃れるように早足で去ってゆくその後ろ姿を、男は無言で見送る。
「―私を怒らせぬ方が身のためだ」
ややあって、男が洩らした呟きは吐息のように儚く空中に消えた。
一方、凛花は夢中で歩いていた。ただ、ひたすら前に進むことだけを考えて歩き、漸く男と共にいた場所から少し離れたところまで来たと思った時、脚を止めた。
―一体、あの男は何なの?
蜘蛛は網に掛かった獲物を嬲り、ついには喰らい尽くしてしまう。恐らく、獲物が網にかかるのをじっと待つ蜘蛛も、あのような粘着質で陰惨な眼をしているのではないか。まるで憑かれたかのように炯々と輝いていた双眸は、気丈な凛花でさえ薄気味悪いとしか思えなかった。
男の手は凛花の髪に触れたというよりは、ほんの一瞬、表面を掠めたにすぎなかった。それでも、凛花は触れられた一部が穢れてしまったような気がしてならない。あんな男にたとえほんの少しでも触れる隙を与えてしまった我が身も許せなかった。
思い出すだけで、身体を戦慄が駆け抜けてゆく。凛花は我が身をかき抱くように、両手を身体に回した。
駄目、駄目。
自分に強く言い聞かせる。このままでは、それこそ向こうの思う壺に違いない。凛花が嫁ぐと決めた相手はこの世でただ一人、皇文龍なのだ。たかだか脅かされたくらいで、心を不安に揺らしていては駄目、文龍に対して申し訳ない。
だが、と、凛花の思考はどうしても悪い方へと流れてゆく。あの暗い眼をした男はある意味で気違いには相違ないかもしれないが、どこまでも真剣であることもまた事実だ。
最初は質の悪い冗談か、先日の意趣返しにからかわれているのだとしか思わなかった。
しかし、
―そなたに惚れたのだ。
そう告げられたときの眼は、けしてその場の思いつきやからかい半分で口にしているものではなかった。
逆に、あまりにも真剣すぎて、かえって怖いと思うほどである。
仮に、あの男が思い通りにならない凛花に苛立ち、凛花を亡き者にしようとしても、それはそれで仕方ない。自分の身ならば、どうなっても良い。だが、文龍が自分のために危害を加えられるようなことだけは絶対にあってはならないのだ。
かといって、自分に何ができるというのだろう?
作品名:暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1 作家名:東 めぐみ