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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1

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 幾ら乳姉妹でお嬢さま付きの女中だからといって、ナヨンもまた他の雑用をしなければならず、ただ凛花の世話だけしていれば良いわけではない。
 凛花にとって、これは千載一遇の好機となった。凛花はナヨンがほんのちょっと側を離れた隙に、そっと部屋を抜け出したのであった。
 心優しいナヨンは凛花より三つ上の二十歳、物心ついた頃から、主従というよりは姉妹のように接してきた。ナヨンが心底から凛花の無事を願ってくれているのは判っている。けれど、屋敷の奥深くに閉じこもって、日がな刺繍をしたり、書物を読んだりして刻を過ごすなんて、真っ平ご免だ。
 凛花が苦労知らずのお嬢さま育ちだから言えることかもしれない。その日暮らしてゆくことすら難しい民は、凛花の言い分など単なる我が儘だと憤るだろう。が、凛花に言わせれば、両班の娘など所詮は豪奢な鳥籠の中の小鳥にすぎない。親の望むがまま家門と家門の繋がりのために嫁がされ、嫁いだ後は、親の代わりに良人の言うなりにならなければならないだけだ。
 良人は正妻だけでは飽きたらず、側妾を持ち、夫婦といえども、心を通わせ合うこともない。そんな無味乾燥な暮らしのどこが良いのか。
 日々、ご馳走を食べ、絹を纏い、光り輝く宝石で身を飾り立てても、心はいつも砂漠のように乾いている。それが両班の女の真実だ。それよりも、良人は妻一人を愛し、家族が肩を寄せ合って暮らす庶民の方がよほど人間らしい生き方ではないかと思う。
 たとえ貧しくとも、両班よりは庶民に生まれたかったと願う凛花は多分、貧しさの何たるかも知らない世間知らずなだけの娘なのだろう。真に窮乏するというのは、恐らく想像を絶するはずだ。生きるために金を得なければならず、実の親が娘を売り、実の息子が病に伏した親を置き去りにする。理屈としてそれを理解はしていても、現実として体験していない凛花には所詮、想像するしかできない。
 町は前回より更に、熱気と活気に溢れていた。声高に客を呼び込む店主の声が飛び交い、店の品物を真剣に物色する客で道は一杯、先に進むのも難儀なほどだ。
 凛花はその中の一つ、小間物屋の前で脚を止めた。店先には幾つかの大きな籠が並んでいて、凛花が眼を止めたのは紅(ローズ)水晶(クオーツ)のノリゲであった。小さな玉の先に淡い桃色に染まった房がついている。凝った作りではないし、いかにも町の露店で売っていそうな代物ではあるが、その控えめな感じが妙に気に入った。
「気に入ったのか?」
 唐突に背後で囁かれ、流石の凛花も飛び上がらんばかりに愕いた。
 振り向くと、見憶えがありすぎるほどの男が気取って立っていた。もっとも、凛花の方は、この男とは願わくば二度と拘わり合いになりたくないのだが。
 我ながら油断していた。しかし、何なのだろう。この男は。腕は滅法弱い癖に、身のこなしには隙がない。まるで猫のように脚音を立てず、並の男以上の武術の腕を持つ凛花ですら、全く気配に気づかなかった。
「店主、これを一つくれ」
 銭を払い、ノリゲを手にした男の顔を凛花はまじまじと見た。数日前、酒場で凛花にこれ以上はないというほどに打ち負かされた男―確か右議政の息子だとか言っていた。
「こんな安っぽいものが気に入ったのか。つくづく、そなたは珍しい娘だな。普通、両班の娘であれば、もっと高価な品を好むだろうに」
 凛花は男には構わず、さっさと歩き出した。
「生憎と」
 凛花はここでくるりと振り返る。
「私は品物を選ぶ際、値段の高低で選ぶわけではありません。ただ値が高いだけで、中身のないつまらない品よりも、たとえ取るに足らないような安物でも、内実は高いものよりよほどしっかりした良い品だということは、ままあるものですから」
 こうして見ると、面長の細面はますます狐に似ている。
 その狐面が蒼くなった。品物の値にかけて、暗に眼前の男の品性のなさを皮肉ったのが判ったのだ。どうやら、そこまで勘は鈍くなさそうである。
「あなたさまがご存じの女人方は淑やかで、安物などには見向きもされぬご婦人ばかりだったのでしょうが、生憎と私は違います。女だてらに剣も使いますし、馬も乗りこなします」
 そうそう、剣よりも得意なのは、弓矢です。
 凛花は取ってつけたように言い、婉然と笑んだ。
―私がその狐(きつね)面(づら)を的と間違えて、矢を射かける前に、さっさと退散しなさい。
 内心では、思いきりそう叫びたい衝動を堪えて。
 だが。眼の前の男は怒りも忘れ果てた様子で、ボウとこちらを腑抜けたように見ている。
「それでは、私はこれで失礼します」
 凛花は軽く頭を下げ、男の傍を早足で通り過ぎようとした。
 その時。男の腕がさっと伸びてきて、凛花の細腕を掴んだ。
 ハッと、男を見やると、男がまるで店先に並んだ品物を吟味するかのように眼で凛花を眺めている。
「待て」
 これを、と差し出された紅水晶のノリゲを見、更に男の顔を見つめ、凛花は困惑の表情を浮かべた。
「あなたに頂く理由はありません」
「無粋なことを申すな。男が惚れた女に装身具を贈る―、ごくありふれた行為ではないか」
 凛花は男の正気を疑った。
「あなたは何か勘違いをなさっているのです。さもなければ、あなたがこれまで相手にしてきた他の大勢のご婦人方と違っているので、私が珍しいのでしょう」
「私の気持ちをそなたに論じて貰う必要はない。大切なのは、私がそなたを欲している、ただそのことだけではないか?」
 冗談ではないと思った。放蕩息子の気紛れに付き合うほど、自分は酔狂ではない。
 凛花はこれ以上、拘わっていられないと無視して先に進もうとした。が、男がゆく手を塞ぎ、それではと回れ右をすると、男もまた先回りして進路を阻む。そんなことを何度も繰り返し、凛花は男を上目遣いに睨んだ。
「良い加減にして下さい。先日の出来事に対してのお腹立ちなら、確かに私の態度にご無礼があったのは認めましょう。されど、酒場での飲食に正当な対価を支払おうとしなかったあなたに非はあります。あなたも男なら、潔くご自分の過ちを認めたらいかがです?」
「先日のことなど、もう、どうでも良い。私はあの一件にむしろ感謝したいくらいだ。あの件がなければ、そなたという女にめぐり逢うこともなかった。のう、凛花。私の女にならぬか? さすれば、そなたの望みは何なりと叶えてやろう。私は、そなたに惚れたのだ」
 凛花の当惑はますます深まった。
「お断りします」
 きっぱりと断じ、更に前に進もうとするも、またしても男が両手をひろげて前を阻んだ。まるで、好きな女の子を苛める幼児の悪戯そのものである。
 凛花は男との果てのない応酬に辟易してきた。本人は色男を気取っているつもりのようだが、凛花には全くの子どもじみた悪戯にしか思えない。
「止めて下さい!」
 堪えに堪えていたものがついに爆発した。
 凛花は叫び、相手をグッと睨み据えた。
「私には既に末を誓った方もおります。幾ら、あなたが私を望まれようと、許婚者のいる身ではお応えのしようがありません」
「そのようなことは百も承知だ。そなたの許婚者は皇文龍(ハンムンロン)、義(ウィ)禁(グム)府(フ)の下っ端であろう」