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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1

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 男を守るように、これまで影のように控えていた従者が前に出る。
「良い、手出しはするな」
「しかし―」
 口ごもる従者に、男が吠える。
「女にここまであからさまに侮蔑されたのだぞ? そなたは私にこれ以上の恥をかかせるつもりか?」
 言い終わらぬ中に、男はいきなり斬りかかってきた。
 凛花は小刀を持ったまま、右、左と男の繰り出す一撃を自在に交わす。それは見ていて、あたかも大人が幼児を相手に鬼ごっこをしているようにも見えた。
 凛花の方はまだ刃も抜いてはいないのに、男は既に息が上がっている。どうやら達者なのは口ばかりで、武術の方はからきし駄目らしい。
 かなり長い間、さんざん追いかけっこを続けた挙げ句、凛花は男の利き腕に手刀を叩き込んだ。
 男の表情が信じられないものでも見るかのように凍りつき、左手から刀が落ちる。派手なこしらえの長刀は乾いた音を立てて地面に転がった。
 凛花が極上の笑みを見せる。
「若さま、本当の男らしさとは口ではなく、力で示すものにございます。どうやら、若さまは強さというものを勘違いなさっているご様子、真に強き者は弱き者を苛めたり不条理な真似は致しません。むしろ、惜しみなく慈しみの心を民に注げる者こそが強き者なのです。どうか、この店の女将に出費に見合うだけの金子をお支払い下さいますように。そうそう、店の机や椅子を壊した分もお忘れなきように」
 凛花の余裕たっぷりの態度に、男の蒼白だった面に紅みが差した。
 自分よりか弱いはずの女に物の見事にやっつけられた―、その事実に対する衝撃よりも怒りの方が漸く凌駕したということか。
 屈辱と怒りにわなわなと身体を震わせる男がおもむろに顎をしゃくる。背後に控えていた従者が再び進み出て、袖から巾着を出した。
 女将が従者から巾着を受け取るのを見守り、凛花は頷く。
「これで良いですか?」
 女将(チユモ)が巾着を押し頂き、幾度も頷く。
「ありがとう(コマ)ござい(スニ)ます(ダ)、情け深く、お優しいお嬢さま」
 女将はくどいくらい同じ科白を繰り返した。
 凛花はナヨンに言った。
「行きましょう。もう、ここに用はないわ」
 惚けたように立ち尽くす男を後に、凛花はさっさと見世を出た。幾ら屑のような男でも、自尊心というものがある。見世にに残してきたからといって、これ以上の無体はしないだろう。
 凛花主従のいなくなった後、従者が控えめに声をかけた。
「若さま。あの女、このまま行かせても良いのですか?」
「あのような女、これまで見たことがない。大概の女は右議(ウイ)政(ジヨン)の父上(アボニム)の名を出せば、私に気のある素振りをし、私の気を惹こうとする。だが、あの娘は大人しくなるどころか、顔色一つ変えぬ。―気に入った」
 男が昏(くら)い笑みを浮かべる。
「あの娘を何としてでも、手に入れたい。確か左副承旨(チヤブスンジ)の娘だと申していたな。あの娘の身辺について探るのだ、良いな」
「心得ました」
 忠実な猟犬を思わせる従者が畏まって頭を垂れた。
そんな取り沙汰がされているとも知らない凛花は何事もなかったかのように、平然と町の往来を闊歩していた。
「もう、お嬢さまったら。お側で見ている私の方が寿命が縮まりそうでしたよ」
 ナヨンが恨めしげに見つめてくるのに、凛花は笑った。
「ごめんね。そなたに心配をかけたくはなかったけれど、どうしても放っておけなかったの」
「それは―私も見ていて、本当に腹の立ついけ好かない奴らでしたけど」
 ナヨンが頷く。
 凛花は小さな溜息を吐いた。
「あの女将だけじゃなくて、ここにいる皆が精一杯働き、生きている。なのに、両班は弱くて貧しい民を踏みにじり、一方的に彼らから取り上げようとばかりするのよね」
 凛花の眼前にひろがるのは都漢(ハ)陽(ニヤン)の賑わいであった。道の両脇に店が居並んでいる。靴屋、扇子屋、帽子屋、鶏肉屋、良い匂いのする蒸し饅頭を売る店など実に様々な店が連なっている。鶏肉屋で少しでも値切ろうとする中年の女房、靴屋で熱心に靴を選んでいる若い女、蒸し饅頭屋の前に集まっている数人の子どもたち。
 皆、それぞれの日々を、生の営みを懸命に紡いでいる。なのに、両班という特殊階級に生まれたというだけで、貴族はろくな仕事もせず身分をひけらかし、民を人とも思わない態度を取るのだ。
「―そんなのって、どこかおかしいわ」
「え? 何かおっしゃいましたか?」
 ナヨンが訊ねるのに、凛花は首を振った。
「何でもないの。今日は、もう屋敷に戻りましょう」
 心から安堵の表情を見せるナヨンと共に、凛花は人々の賑わいの中を屋敷へと向かって歩いた。

 その数日後、凛花は再び町の雑踏に紛れていた。いつものお忍び姿で、頭から外套をすっぽりと被っている。
―お嬢さまったら、本当にどうしようもない方だわ。
 ナヨンが怒り、嘆いている様が眼に浮かんできて、一瞬だけ罪の意識に駆られてしまう。
 あの後―、酒場でのひと悶着があってからというもの、ナヨンの態度が一挙に硬化してしまった。これまでは、凛花の秘密の外出には寛容で協力的ですらあったのに、
―絶対にお忍びは駄目です。
 との一点張りなのだ。
 凛花がしばしばお忍びで町に出ていることを、父の碩采(ソクチェ)は知らないわけではない。薄々察していて、大目に見ているのだ。
 元々、両班とはいえ、碩采は身分に拘る人ではなく、むしろ、拓けた思想の持ち主であった。両班が存在するのは民を守るためであって、国の基本は国王よりもまず民だと考えるような男である。むしろ、父の考えは一歩間違えれば、国王(チユサン)殿下(チヨナー)への不忠とも取られかねない危険を孕んでいた。
 その父の薫陶を受けた凛花もまた、現在、まかり通っている両班でなければ人にあらずといった思想には懐疑的である。だからこそ、数日前、酒場で難儀していた女将を捨て置けなかったのだ。
 が、お付きの女中にして乳姉妹(ちきようだい)でもあるナヨンは、常から女主人の正義感には手を焼いている。元々、ナヨンの母は凛花の乳母(ユモ)であった。その乳母は幼くして生母を亡くした凛花を実の娘ナヨンよりも慈しみ育ててくれたが、惜しむらくは二年前に亡くなったのだ。
 乳母は亡くなる間際までナヨンの手を握り、
―お嬢さまをお前がお守りするのですよ。
 と、言い聞かせていた。
 ナヨンは、その母のの遺言にすごぶる忠実である。いつもどこにゆくにも凛花の後に付き従い、身を挺してでも凛花を守ろうとする。
 ナヨンにとって、凛花の安全は何より優先される事柄なのだ。
 ゆえに、数日前の事件があってから、凛花がまたお忍びで出かけようとでも言い出そうものなら、物凄い形相で即座に〝駄目(アン)です(デヨ)〟と返してくる。
 こうなれば、ナヨンには申し訳ないけれど、黙って脱出を図るしかない。
 今日の午前中、凛花は自室でずっと刺繍をして過ごしてきた。むろん、その傍らでナヨンはぴったりと張りつくように繕い物をしていたのだ。これでは逃げ出す隙もないと思っていたところ、女中頭がナヨンを呼んでいるとかで、若い下働きの娘がナヨンを迎えにきた。