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暗行御使(アメンオサ)の秘密~燃え堕ちる月~1

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騒動の種  

 突如として後方から甲高い女の悲鳴が響き渡った。凛(ルム)花(ファ)は傍らを少し遅れてついてくる若い女中と顔を見合わせる。
「お(ア)、お嬢さま(アガツシ)?」
 ナヨンがさっと蒼褪め、ふるふると首を振った。
「いけませんよ。絶対に駄目です」
 しかし、凛花は懸命に諫める女中には頓着せず、踵を返す。
「お嬢さま、凛花さま~」
 ナヨンの情けない声が追いかけてくる。
 凛花は件(くだん)の悲鳴が聞こえた辺りまで引き返し、立ち止まった。立ち止まって様子を窺っている中に、すぐ手前の酒場が騒動の因(もと)となっているのだと知れる。
「お嬢さま(エギツシ)、お願いですから、面倒に首を突っ込むのは止めて下さいまし。こうして黙ってまた、お屋敷を抜け出してきたことだけでも、旦那(ナー)さま(リー)がお知りになったら大事(おおごど)なのに、この上、厄介事に拘わってしまったら、この私が監督不行届きとして、お叱りを受けます」
 凛花は振り返ると、微笑んだ。
「あら、そのお父さま(アボニム)がいつも私におっしゃってるのよ。弱き民を守るのは我々両班(ヤンバン)の義務であり責任だと」
「だからと言って、何もお嬢さまがご自分でなさろうとしなくても」
 ナヨンは、もう今にも泣き出しそうである。心優しい乳姉妹(ちきようだい)を困らせるのは本意ではないけれど、ここで見て見ぬふりをすることなどできようはずがない。
 凛花は、まだ何やら呟いているナヨンを後に、さっさと一人で酒場の中に踏み入った。一歩脚を踏み入れるやいなや、店内の酷(ひど)い狼藉に凛花は息を呑んだ。
 さして広くはないそこは、粗末な机や椅子があらかた倒され、床には銚子や盃が散乱し、粉々に割れているものまであった。
「誰がこんな酷いことを」
 凛花は呟き、素早く周囲を見回した。
 片隅で両手を胸の前に組んで震えている中年の女がいた。
 恐らく、あれがこの店の女将だろう。美人ではないが、ふっくらとした面立ちは、いかにも人が好さそうに見える。
 対して、女将に詰め寄っている男は、いかにも酷薄そうな冷笑を浮かべていた。身なりからして両班、しかもかなり上流の家門の息子に違いない。身に纏っている派手な紫のパジチョゴリはひとめで極上の絹と判った。
 世の中の女たちは、この手の男を男前と呼ぶのかもしれないが、凛花にとっては最も嫌いな部類の男だ。狐を彷彿とさせる細くつり上がった眼(まなこ)は冷ややかな光を放ち、この男の不遜さを何よりよく物語っていた。
「お嬢さま、相手は殿方です。ここはやはり相手にならない方が」
 背後のナヨンの声を無視して、凛花はついと進み出た。男と女将の間に入ると、さり気なく女将を庇うように立つ。
 男はまだ若く、十七歳の凛花とは数歳離れているか、或いはその少し上―二十代前半だと思われた。
「一体、何がどうしたと言って、この店をこのような酷い有り様に?」
 まなざしに力を込めて見据えると、男は端(はな)から馬鹿にしたように口笛を吹いた。
「この者は両班たる私に無礼を働いた。ゆえに、身の程をわきまえるべく教えてやったのだ」
 事もなげに言う男の方を怖ろしげに見ながら、女将がおずおずと口を開く。
「私は何も間違ったことは申しておりません、お嬢さま。この方たちはもうかれこれ一刻余りも前から、うちの店でさんざん飲み食いしていたのです。その挙げ句、金も払わずに帰ろうとするんで、私が文句を言ったら、いきなり暴れ出したんですよ」
 凛花は眼前の男の少し後ろにひっそりと佇むもう一人の男を見つめた。従者であろうか、年の頃は二十五、六、主人に影のようにぴったりと寄り添っている。その場にいないかのような存在感の薄さが逆に不気味であった。
「何度も同じことを言わせるな。支払いはツケにしておけば、次に参ったときに払うと申しておるではないか」
 主人らしい男が居丈高に言うのに、女将はすかさず叫び返した。
「そんな科白、所詮、その場逃れだよ。だって、あたしの知り合いの店でも、あんたは同じことをしたっていうじゃないか! あんたらは、あたしが聞いてた人相とそっくりそのままだよ」
 〝お嬢さま、どうかお聞き下さいよう〟と、女将は憤懣やる方なしといった様子で訴える。
「この人らによく似た面相の男二人組がしこたま飲み食いした末に食い逃げしたって、そこの女将がぼやいてたんですよ」
 女将はもう一度、凛花の後ろから怖々と男の顔を見つめ、確信に満ちた口調で断じた。
「ええ、間違いありませんとも。やたら背が高くて気取り返ったのとえらく陰気な若い男の二人組って聞いてましたからね」
「貴様、黙って言わせておけば、無礼にも程がある。我らを盗っ人呼ばわりするとは」
 男が腰の刀に手をかけたまさにその時、凛花が鋭く言った。
「それでは」
 男がハッとしたように凛花を見る。
「女将の言い分が果たして真実なのかどうか、確かめてみてはいかがでしょう? 知り合いだという店の女将をここに呼び、あなた方の顔を見せれば、すべては自ずと知れるというもの。万が一、この店の女将の言葉がすべて出たらめだというのなら、女将はあなた方に伏して詫びるでしょうが、もし、その逆ならば、あなた方が女将に詫びて、踏み倒した酒代をすべて払うことになるでしょうね」
 わざと相手を焦らすように間を置き、続ける。
「それとも、そのようなまどろっこしいことはせず、このまま捕盗庁(ポトチヨン)の役人を呼びますか?」
「若(トル)さま(ニム)」
 後ろの従者が何やら男に囁いている。
「さあ、どうしますか? 私は役人が来ても一向に構わないのですよ。むしろ、事が大きくなって困るのは、あなた方の方では?」
「くっ」
 男は悔しげに表情を歪め、凛花を烈しい眼で睨(ね)めつけた。
「私に真っ向から楯突くとは見上げた度胸だ。初対面の人間にここまでの大言を切ったのだ。そちらもせめて名を名乗るくらいの礼儀を示しても罰は当たらないだろう」
「お嬢さま、いけませんよ、名乗ってはいけません」
 ナヨンが怖ろしさに声を震わせている。
「申(シン)凛(ルム)花(ファ)」
 凛花が素っ気なく告げ、男はぞんざいに顎をしゃくった。
「つまりは、そなたの父は左副承旨(チヤフクスンジ)の申ソクチェだな。フン、たかが承旨の娘ごときがこの私に衆目の中で恥をかかせたのか」
「あなたのお父上がどなたかは存じませんが、私は我が父を誇りにしております」
「なっ」
 男の白い面が怒りのあまり、朱に染まった。
「あまり私を怒らせぬ方が身のためだぞ? 私の父は右議(ウイ)政(ジヨン)朴(パク)真善(チンソン)だ」
 しかし、持ち出された右議政の名にも、凛花は眉一つ動かさない。
 やがて、フッと花のように可憐な容(かんばせ)に明らかに侮蔑の表情を浮かべた。
「あなたはその歳になって、幼子のように親の名を持ち出そうとなさるのですか? 親の威光がなければ何もできないのは、情けない。そのような者を世間では腰抜けというそうですが」
「何だとォ」
 男が腰に佩(は)いた刀を抜いた。
 ナヨンが〝ヒ〟と短く悲鳴を上げる。
「下がっていて、ナヨン」
 凛花は低い声で告げると、懐から小刀を取り出した。