分化するとき
あの屋敷での夕飯の帰り道はいつも、殆ど喋らなかった。感じていた妙な感覚もあったろうし、もしかすると逃げるように二人の家に帰っていたからかもしれない。走る風はまるで熱風だ、頬に触れると顔は熱い、これは恐怖や緊張の所為ではないだろう。ずっとずっと、帰り道に話せなかったこの気持ちに確信を抱く。灼熱の風を受けながらも頬は死人のようで、それでも内に燻る言葉に出来なかったこの感覚。何かがおかしいと、言おうにも言葉にしてしまうと何かが違ってしまうと仕舞い込んで、表面は死んでしまっていた。今、こうして感じていた違和感は現実の恐怖となって自分たちを襲ってくる事で初めて、浴びていた風は冷気ではない、灼熱の、身を焦がす、不安や恐怖や悲しみや全ての感情だ。ちゃんと二人で泣くこともないまま、覆い被さってきた現実に気付かせるためのそれだった。ムギもソラも、家が近付くごとに今身に起きた現実が身体に滲みてくる。家に着く頃には、ムギは息を荒げて急ブレーキをかける。耳を劈く金属の擦れる音が響いたが、それに耳を塞ぐ余裕も無いまま家に向かう。自転車も乗り捨てるように玄関横へうち遣り、ムギは肩で息をしながら玄関の鍵をポーチに手を突っ込んで探す、ぎこちないまま見つけ出したそれを鍵穴に入れて回そうとするが、手が小刻みに震えてしまってなかなか入らない。見かねたソラがその手を握って鍵を開けると、はっとしたようにソラの方を見て苦笑いをする。その表情もまたどこか何かを抑え込んでいるようで、ソラは案じるように不服げな顔をする。それにすら気付かないのか、ムギは玄関扉を開けると真っ先にソラを中に押し込み、次いで自分も入ると急いで鍵を掛ける。
「ソラ、作業場に行こう。何か、食い物と、飲み物も、持って」
「うん」
あそこなら安全だと自転車に乗っている間からずっと思っていたので、ムギもソラも示し合わせを口頭でしながらも、話し終えるより早くキッチンから目に付いた食料を抱えて作業場へと運び始めていた。飲み水はタンクにまだあった筈だから、きっと大丈夫だろう。ここなら、書類を盗もうと追ってきたとしても奇襲される心配もないはずだ。運び終えて戸締まりを確認すると、ソラは何も言わずに机へと、折りたたんで持ってきた書類を投げ出す。
「これ。アイツ、書類の偽造をして僕らの家と土地の所有権を取るつもりみたいなんだ。首都からの認め印も、あと数回で完遂されるところだった」
ムギはいきなりソラから語られた言葉の意味が一瞬理解出来なかったようで、数秒動きが止まる。ただ、話すよりも先にソラが指さした部分には確かに妙だと思わされる箇所が幾つかあった。
「でも……どうして、こんなところの土地なんか」
「分からない。僕はうちのを見つけたからそれだけ持ってきたけど、他にも書き換えようとしていたのかもしれない。まだ、その書類はあいつの手元にあるから証明は出来ない。多分……親無しだって思われたから、やりやすかったんじゃないかな」
「…………」
親無し、という言葉を苦々しげに吐き捨てたソラに、ムギは返す言葉も見つからなかった。自分よりも先に、ソラの方が現実と向き合おうとしているのかもしれないと思うと、どこか守ってやれないようなもどかしさを感じる。ソラはそんなムギの様子を見ていたのか違うのか、気にかけない風を装って続ける。
「このハンドル。通信機につけてみよう。ずっと前に見た旧型でさえ履歴を残していたんだ。もしかしたら、アイツが首都に向けてどんな報告をしていたのか分かるかもしれない。あと、もしかしたら、首都の方に通信が繋がったら、直訴だって出来るかもしれない。まぁ、物分かりが良い人ばかりじゃないと思うから、明日リンデンおばさんの所に行く事も考えていた方がいいかもしれない」
すらすらと続けるソラに、ムギは呆然とする。さっきのさっきまで、屋敷の玄関先から見た、今にも折れて飛ばされてしまいそうなソラの姿からは想像も出来ないほどに強く、しっかりとした言葉と案だったからだ。目をぱちくりさせて、またハッとしてムギは自分の頬を両手で叩いて、机の横に立つソラを見る。ソラがいつもよりも大きく見えるのは、自分が椅子に座っているという事だけが理由ではないだろう。
「な、なんか……すげーな」
「……当然でしょ。ムギに出来ない事は、僕がやる。絶対に、あんな奴の好きになんてさせない。……あと、ボタンしめなよ」
「……あ」
ソラが何となく気まずそうに目線を逸らしながら指摘する。屋敷からそのままの格好で出てきて、ずっと放っておいてしまった。もしかしたら何か嫌な事を思い出させてしまったか、とムギは申し訳なさそうに急いで前をしめたが、ソラはそういうわけではないようだ。気まずかったのか、ソラはハンドルを通信機に填め込めるか確かめる。しっかりと形も合うようで、吸い付くように通信機は反応してロックがかかったように外れない。力を入れて回すと、中でガリガリと何かを打ち込む音がする。曇ったガラスのディスプレイには掠れた文字が一行ずつ浮かぶ。ムギは通信機が気になってボタンも掛け違えたまま、ソラの隣でじっとその様子を見守る。
「多分、このダイヤルを回すと送信先、こっちのレバーでその内容だね。これを見せて回るのはちょっと大変だから……やっぱり、まずは信用できる大人に相談するのが、いいかもしれない」
「そう……だな」
そこまで言うと、ソラは通信機の電源を落とす。ムギが摩耗した革のソファに腰掛けると、ソラもまたその隣に座る。二人とも空腹だったのを忘れていたのだが、自宅について安心したら急にお腹が空いてしまって、何か話すこともないまま買っておいたパンを口にする。今日は疲れているのに、とても眠れそうにない。明日はリンデンおばさんのところへ行く予定だが、もしかすると夜中に自転車で物凄い音を立てて走り回っていたのに気付いて、あっちから来てくれるかもしれない。どちらにせよ、どう説明したら良いだろう。ここ二年近く、足を使って住民の信頼を得ようとしてきた村長の悪評を自ら流すというのは、ジェンカの言う通り妄言と思われるかもしれない。ソラがソファへ背を凭れ小さくなったように肩をすくめると、ムギも同じようにソファへ身体を預ける。
「……ねえ」
「……ん」
「……やっぱ、なんでもない」
身体が鉛のようだ。それでも、目は冴えて眠れそうにない。ムギに話しておかなければならない事があるし、ムギからも話を聞かなくてはならないはずだというのに、口を開く事すら億劫だ。何があったかなど話す必要があるかと問われれば、無いかもしれない。それでも、お互いに相手をどこか犠牲にしてしまったような罪悪感にも似たものを感じてしまっていて。罪滅ぼしをするというわけではないものの、何かしないと気が済まないように感じる。
「……あのさ」
先に口を開いたのは、ムギの方だった。ソラは、返事もせずに黙って聞いている。それを気にした風でもなく、そのまま続ける。
「何ていうか……ゴメン。もうちょっと、早く行けばよかった」
「……何言ってんだよ。そんなの、ムリだったでしょ。それに、僕も油断してたし、別にムギの所為じゃない」
「そうだけど……」