分化するとき
「こんなに小さい村で、男に抱かれたなんて話を大人にするか? もししたとしても、誰も信じないだろう。そんな妄言を吐いたところで、お前がもし書類を手にしたとしても、信じる奴なんていないだろうさ。器用で有名なパーツ屋の兄弟が、気に入らない村長を爪弾きにするためにきっと偽造でもしたんだろうってな」
「そ、そんなこと…… ……ッや、やめろ!!」
ベルトが外された。慣れたような手つきで留め具を外そうとするのを妨害しようと身をよじるが、強く抑え付けられた中でのそれは無抵抗に等しい。
(嫌だ――こんな、クズなんかに! 家も土地も取られて、こんな、こんな――)
ぎゅっと唇を噛む、恐怖や悔しさに目が潤んでいた事にも気付かない。最後の抵抗にと胸元をまさぐる手を退かそうと引っ掻くが、その抵抗すら愉しいとでもいったようにジェンカは笑っている。もう、どうする事も出来ないのか、拳を握って目を開く。こんなにもすぐ隣に、外への扉はあるというのに! あと少し、少しだけ手を伸ばせば。身体をどうにかしてずらして、逃げる事が出来るはずなのに。
縋るようにまた扉へ目線を遣ろうとすると、勢いよく扉が開け放たれた。突然の事にソラは目を丸くする事すら忘れ、もしかしたらとても情けない顔をしていたかもしれない。というのも、そこには兄の、ムギの姿があったから。扉を開けるや否や、ムギは詳しい状況は分からないもののソラが危険な状態にあるという事は既に分かっていたかのように迷う事なくジェンカに殴りかかる。突然扉が開いた事に気を取られたのか、ジェンカはその場でよろめく、ソラは本棚にしがみついたまま言葉を発する事も出来ないでいるが、ムギは真っ先にソラとジェンカの間に入る。
「ソラ、外の自転車で先に帰ってろ!!」
「で……でも」
「いいからッ」
ムギは一度だけソラの方を振り返ったが、すぐにジェンカの方へと向き直る。よろめいただけでしっかりとその場に立っている所から、油断するとこちらが殴り掛かられるかもしれないと思ったのだろう。ソラは不安げにムギの背中を見たが、この場に留まるよりもまず書類をジェンカから離れた場所に持って行かなくてはならない。外されかけたベルトを直すこともせず、そのままよろめくように走り出す。その後をジェンカが追おうとしたところへ、ムギが割って入る。
「何があったかは知らねーけど、ソラを泣かせる奴は許さねえッ」
どうにか、ソラが安全な場所へ逃げるまでの間の時間稼ぎをしなければ。ムギは常と様子の違うジェンカにすら怯む事なく睨みつける。いつ殴りかかられても応戦出来るようにと、片方が鋭利な金槌を抜いて威嚇する。捲った腕は白く細いソラとは対照的に、普段の力仕事である程度鍛えられ筋張った腕が見える。先ほどのような強引な方法では突破出来まいと思ったか、ふらついた足下をしっかりさせるように頭を振る。
「……黙ってそこを退け。退かないと、酷い目に遭わせる」
「何とでも言え。素手のアンタにそんなハッタリかまされて、誰が信じるかよ」
十分に凶器たり得るものがこちらにはあるのだと言わんばかりにムギは金槌をぎゅっと握る。ただ、もしこれで頭でも狙おうものなら確実に殺してしまうだろう。流石に、頭に血が上ったとはいえそうするわけにはいかないと分かっていた。せめて足を負傷させる事が出来れば、追いつかれる可能性も低まる筈だ。そんな、ある種の迷いのようなものをムギの目に見たのか、ジェンカは一気にムギの懐へと間を詰める。しまった、と金槌の柄で応戦しようとしたところで、手から金槌が打ち落とされる。びりびりと手首から肩にまで痺れるような衝撃にムギは顔を歪める、その一瞬を見逃さず、ジェンカは内から足を払ってその場に背中からムギを転ばせる。馬乗りになった状態のまま打ち払った金槌をムギの手から届かない範囲へと飛ばす、それに気付いて一瞬顔を強張らせたところを見て、ジェンカは先ほどまでの焦りも消えたのか、余裕に溢れた笑みを浮かべる。
「下手に子供が知識を得るから不幸になるんだ。お前らみたいな田舎のガキは、こうして大人しく言う事を聞いていれば何も知らず幸せに過ごせるというのに」
「……くっ……」
何か、こいつを退かせるものは。腰につけたスパナに手を遣ろうとしたが、先ほど転んだ衝撃で散らばってしまったらしく、ある筈の場所にそれは無かった。馬乗りになったジェンカは焦りを覚えるムギの様子が可笑しくて仕方が無いのか、にやついた顔のまま言葉を続ける。
「お前らほどの歳なら、同じようなものだな。どんなに犯したとて子を孕む事も無く、便利なものだ」
「はっ……?」
何を言っているのか、と続けようとしたが、馬乗りのまま服のボタンに手を掛けてきた事から、ムギは考える間もなく、必死に頭をフル回転させる。ぐっと手を伸ばした先に、木槌の柄が触れる。――これだ! ぐっと指を伸ばして柄に触れる、押し返す事もなく一見馬乗りの視点からは無抵抗な様子に油断しているのか、ジェンカは木槌の存在に気付いていない。しっかりとムギは木槌を掴んだ事を確認すると、死なない程度にと木槌の側面で思いっきりジェンカの横っ面を殴った。瞬間的に浴びた衝撃に脳震盪を起こしたようにジェンカは横へ倒れ、殴られたところを抑えている。ムギはそのまま上体を起こし、急いで落とした工具を拾って部屋を出ようとする、扉の横に落ちていたハンドルもついでに拾って、そのまま走って屋敷を抜け出す。
玄関から出たところで、石畳の先でソラが自転車にまたがったままこちらを見ていた。不安気で今にも心臓が飛び出してしまいそうなほどに怯えた目は、ムギを見つけて安心の感情も相まって何処か儚げですらある。
「――ソラ! どうして……先に行ってろって……!」
「ムギだけ残して、出来るわけないだろ! 今は、早く逃げよう!!」
そうだ、とムギは急いでソラの方へと向かう。自分が漕いだ方が速いとソラも知ってか、ムギが運転席に乗ったと同時に後ろから押しながら走る、或る程度の助走が着いたところで後ろに飛び乗り、屋敷を後にした。