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分化するとき

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 頼まれていた階段修理は、想像していたほどは酷い壊れ方をしていなかったため、案外早く片付いてしまった。途中まで自転車の後ろに乗せていった事もあり、ソラを村長の家の前で降ろしてからあまり時間も経っていない。そのため急ぐ程ではなかったのだが、折角早く切り上げる事が出来たのだからと家に帰らずに向かう事にした。
 今日は、部屋をひっくり返して見たこともない部品を探し回ったりと何やかやで何も出来ていなかったのだが、結局その部品は紛失したわけではないという事が分かった事もあって気分が良かった。修繕費の支払いを受け、そのまま軽い足取りで自転車にまたがる。ここからそう遠くないのだし、飛ばして行けばきっとソラも驚く事だろう。鼻歌交じりに頬で風を切り、地面の窪みも軽く飛んで避ける。前回夕飯を食べたのは、一週間ほど前だ。最近は隣国との取引が可能になるかもしれないとのことで、今までに製作したもののリストアップをしたり、図面に番号を振るといった事務的な事に忙殺されていたためあまり顔を見せる事も出来なかった。きっと早めに行ったとしても、久しぶりだからという事で大目に見てくれるだろう。今の時期は夜になると冷え込む。なるべく早く帰って、今日は早く眠ってしまいたい。納期が迫った時の追い込みでもないのにここまで家の中でじっとしていた(じっとしていたとはいえ、今日は駆け回っていたのだが)のは久しぶりかもしれない。ソラは引きこもりがちとはいえ、依頼品を並行して修理製作する事が多いので、こうして一日中一つのものにかかりきりになったのはきっと疲れた事だろう。本当であれば、今日はそのまま家で適当な夕飯をとって眠ってしまいたいところだったのだが、すぐ手に入る場所にハンドルがあると知った事や、何よりずっと顔を出していないというのに一抹の申し訳無さのようなものも感じていたのは事実だ。それでも、今日はもう、帰りたい。行くのが嫌だとかそういう理由ではなく、家で早くぐっすりと眠りたい。ムギは立ち漕ぎをして速度をぐんぐん上げていく。

 玄関の前に着くと、急ブレーキを掛けたため自分の周りに砂埃が立った。そのまま前に突っ込んでしまいそうになるところを危ういところで引き留め、邪魔にならないよう、敷地の隅の方へと手で押していく。向かった正面から沈みかけの西日が顔を照り付け、目を細める。日が短くなったな、と地平線の上で痩せた太陽が沈む様子をぼんやり眺めていると、唐突に本か何かがバサバサと落ちる音がする。油断しきっていたため驚いて音のした方に目をやると、窓が開いていた。風で何かが落ちたのだろうか、と考えながら自転車を停めると、言葉こそ聞き取れないものの、何か叫ぶような声が聞こえる。唯一確実なのは、それがソラのものだという事だ。何があったのかは分からないが、頭でそれを考えるよりも先に足が走り出していた。窓から入ってしまっても良かったのだが、風にはためくカーテンの所為で中の様子が窺えない。しかし、屋敷の端であるという事を考えると玄関からまたこちらに折り返すまで、どれほどの時間が掛かるか? それすら計算する余裕も無いが、何より今は中から行く事が先決事項だ。玄関に鍵が掛かっていたとしても、金槌で壊してしまえばいい。何事も無い事を思う一方、間に合ってくれと自分に言い聞かせながら、ムギは息を切らせて走り抜ける。


「きみの持っているそれ、渡してくれるかな? 持ち出されては困るものもあるから、鍵を掛けていたのだけれど」
 肩を掴んだ声の主は、落ち着いた声色でソラに話し掛ける。同じく、ソラもまた落ち着いた声を意識して続ける。
「……さっき渡し忘れたって言ってたよね? これが無いと――」
 そこまで言って顔だけジェンカの方を向くと、それと同時に肩をぐっと引かれて正面に向かせられる、まだだ、まだ冷静でいなくては。せめて、この部屋を出るまでは。ここを出てしまえば、真っ直ぐの廊下を走るだけだ。屋敷から出て少し走れば、数軒家もある。いざとなったらそこへ駆け込めば良い。ソラはきっとジェンカの目を見上げた。いつも纏っていた優しげな色は沈んでどこか冷たく、何を考えているのか読み取る事ができない。すると、口元を歪めて笑うように言葉を放った。
「分かっているだろ? その書類だよ。何のために、わざわざ引き出しに細工なんかしてたと思うんだ?」
 捕まれていた肩が強く握られたのがあまりに痛くて悲鳴を上げる、目の色どころか、口調までいつもと違う……いや、どこか納得したような気がする。ずっと言葉に出来ないまま抱いていた違和感は、これの持つ、内を探らせないままこちらへ入り込んで来ようとする物腰の武装によるものだったのだ。我ながら、違和感を覚えていたにも関わらずどうすることも出来ずにいたのは笑ってしまう。捕まれた肩は痺れを感じていたのに、既に麻痺しつつあるのか感覚が失われつつある。
「放せ――このっ!」
 思わず片手に持っていたハンドルをジェンカ目掛けてぶつける、こめかみに当たったようだが、一瞬目を瞑らせただけで大きなダメージにはなっていないようだった。だが、今が好機とソラはドアノブに手を掛ける。ドアノブを回そうとすると、腰の辺りから回された両腕にぐっと扉から距離を空けさせられる、唐突に後ろへ引かれたものだから、ドアノブを掴む筈だった手は横の本棚へ乱雑に置かれた本を床にばらばらと落とすしかできなかった。扉からの距離は一瞬にして無限に広がってしまったようで、このまま引きずられてしまってはまずいと必死に壁に固定された空の本棚にしがみつく。
「――軍役を経験した大人をナメるなよ? 何処に書類を仕舞ってる、さっさと出せ」
「い……嫌だ!! お前なんかに……僕らの家も、土地も、絶対に渡さないッ」
 ソラが必死に足を蹴ろうとするも、ジェンカはびくともせず淡々とソラの服の中をまさぐる。書類の内一つは折りたたんでポケットに入れてある、もしこれが見つかってしまったら、どうなるか? 入れてくる手を無我夢中で引き剥がそうとするも、何ら効果が無いようだ。悔しさにジェンカの腕に爪を立てるが、それもまた何も無いかのように探すのをやめようとしない。だが、途中でソラは違和感を覚える。もし書類を探しているのなら、ポケットやポーチを探すのではないか? そこまで考えが至った頃、服の下に入ってきた手が肌に触れる。訳の分からないまま怯えの色すら隠せず首だけ振り返ると、そこには同じく鋭い目でこちらを見据える彼の姿がある、ただ口元は何処か愉快そうで、そこから発せられるであろう言葉を聞くだけで汚されてしまいそうだ。
「な、何……を……」
「殺すわけにはいかない。だが、他の大人に話されるのも都合が悪い。それなら、どうお前の口を塞ぐか」
「さっ……触るな……っ!」
 まさぐる手は肌を縫うように這い上がり、胸の辺りにまで達する。肩で抑え付けられたままで身じろぎする事すら出来ない、もう一方の手はベルトの辺りを何か引いているようで、今どうなっているのか把握しようにも、それを芯が拒んでソラは理解しようとしない。恐怖だけは全身の強張りからも感じているようで、震えが止まらない。その様子を見て楽しむように、ジェンカは小さく笑っている。
作品名:分化するとき 作家名:ゆきしろ