分化するとき
その翌日、また来訪者があった。仕事関係の大概は急ぎでない限り週末に偏っていたため、週の半ばに訪れる人は別の用事以外は珍しい事だった。ソラが応対すると、ここから一番近い隣人である牧通りに住むリンデンおばさんだった。一昨年生まれた子供を背負って、長いバゲットを数本と手作りのバターを籠に入れている。作りすぎたからとお裾分けをするためにわざわざ来てくれたのだという。彼女は別の村に姉がいるらしく、その姉と兄弟の母が同じ年頃だったためか何かと昔から良く面倒を見てくれていた。母の失踪後も何かと心配をしてくれて、こうしてたまに様子を見にやってきてくれる。ただ、先日の話の事もあったので、ソラは彼女が本題に入る前からその話だろうかとうっすら考えていた。
「……昨日ジェンカさんから聞いた話なんだけど、養子になるって本当?」
「ええと、その。まだ、そう決めたわけじゃないんだけど」
そうなの、と彼女は言うと何処か安心しているようだった。ずっと今後の身の振り方を気にかけてくれているようであったので、この選択に思うところがあったのだろう。背に腹は代えられないと言ってしまうと大袈裟な気はするが、出来るならば二人だけで今まで通り過ごしたいという気持ちに変わりが無いという事もまた告げると、それが最善だろうと頷きながら聞いている。
「今夜、夕飯をご馳走になるんだ。僕も一応事務的な書類とか、法律とか調べてみてはいるんだけど、難しくて」
「そうなの。……まぁ、この一年特に変な事も無いし、良い人なんじゃないかしら。あ、そうそう。これ、渡すの忘れないうちに。ジェンカさんにもあげてくれるかしら」
「あっ……ごめんなさい、気が回らなくて。ちょっと……ムギとも、色々話そうと思ってる」
「……そうね、まだ急ぐ話でもないんでしょう? 私達で良かったら、いつでも相談乗るから。ダンナも、あれで一応学はある筈だからね」
「……うん、いつもありがとう」
ソラがそう言って笑うと、それにつられてリンデンも笑みを浮かべる。付き合いが長い事もあってか、昨日と同じく今後の話をしたというのに今回はあまり気持ちが沈む事は無かった。出会って一年半ほどの人に養親としての申し出をされれば不安に思う事も当然の事かもしれないが、この村の空気として自体が異質な存在として外部から来る者に多少なりとも排除する気持ちがあるからなのかもしれない。元々村同士の集まりでもあるし国境が近い事もあって部外者に該当する者も住んではいるのだが、同輩として村に居住する者が多いためあまり気にならない。その一方、村長という立場は明らかに同輩中とはいえその中の主席たる立場を有している。そうなると、同列から突出した者の行動にはつい住民も目が行ってしまうし、他と比べて多少の抵抗があるのも致し方ないのかもしれない。
とはいえ、申し出そのものを客観視すると理にかなった話であるし、単に感情の問題に終始するのではないかとソラは思う。それを割り切る事が出来ない上で、彼の異物感がある事で更に不安になってしまっているのだろう。リンデンを家の外まで見送ってから、昨日とあまりに違っている自分の心持ちに疑問を抱く一方で、そんな事を考えても仕方のない話だと夕飯のメニューの方へと考えをシフトする事にした。
扉の前に立つと、緊張で一瞬ノックの仕方を忘れてしまった。
村長の家は古くからある建物で、村長が変わる度に改装や補修を繰り返しながら大切に使われてきたものだ。使い込まれた真鍮のドアノブは手の触れる部分が柔らかい色合いに変わっていて、ニスで何度も塗り直してぴかぴかにされた木の扉からは少し浮いている。敷地面積が広い事もあり一階建てで、ジェンカの住むこちらは庁舎の裏側に当たる。
先ほどまで二人乗りした自転車の後ろから見ていた背中とは打って変わって強張ったムギの様子に、ここは自分がするべきなのだろうとソラは扉を少し強めにノックする。扉の前で手を上げたところへ突然ソラがノックを仕込んできたものだから、ムギは一瞬驚くと同時に少し安心したように肩を降ろす。考えたところでどうにかなるわけではなかったが、頭の中がいっぱいになっていたところへちょっとした隙間が生まれる。すると、家の何処かが開いているのか、夕飯と思しき香りが鼻に届く。間髪入れずにムギのお腹が鳴ったのを聞いてソラがにやにやしていると、玄関扉が開けられた。
「やあ、よく来たね。もう出来ているから、入って」
「……あの、これ。リンデンさんからお裾分け貰ったから。タダで夕飯っていうのも、何か悪いし」
そう言ってバゲットを差し出すと彼は、気を遣わなくて良いのに、と笑った。そんな二人を尻目にムギは鼻をひくつかせて夕飯のメニューを当てようとしている。また盛大に腹の音が鳴ったので恥ずかしそうに笑って誤魔化すと、中に通された。
庁舎へと繋がる通路は二本あって、自宅へは中庭からの入り口以外はそれらしかないのだそうだ。客間が幾つもあるような作りをしているため、どこがどの部屋なのか二人には検討がつかなかった。
「ちょっと歩くけど、どの部屋かはムギくんが匂いで分かるんじゃないかな?」
歩きながらジェンカは、先ほどからずっと空きっ腹を訴える腹を申し訳なさそうにさすっているムギに当てられるかを提案する。空腹のあまり集中力が切れかけているのか、ムギはそれどころではないようだが。
「いや、もう。腹減って匂いどころじゃねーって! わざわざお腹空かせてきたしっ」
「それは良かった」
そう言いながらある部屋を開けると、先ほどまで廊下にまで流れていた甘みのある匂いが強くなる。種明かしをされる前にとムギは部屋に入る前に一度目を瞑って腕を組む、突然立ち止まったものだから後ろから歩いていたソラがムギにぶつかってしまい、止まるなよ、と文句を言ったがなにやら考え込んでいるようで特に聞いていないようだ。
「むっ、これは……ビーフシチュー!」
「おや、よく分かったね」
よし、と嬉しそうにムギは意気揚々と部屋に入る。そんな事で止まったのか、とソラはあきれた顔をしながらついていくが、テーブルにはムギの言った通りビーフシチューがあるだけでなく、サーモンのオーブン焼きや数種類のキッシュも並んでいた。二人暮らしを続けている間はスープや適当な料理が多かったため、客として出された料理など何年ぶりだろう。ムギは目を輝かせて座り、ソラもまたテーブルの料理から目が離せない。二人の様子を見て、気に入ってくれたようで良かったと話しながら二人の前に座った。
夕飯は想像していた以上に穏やかだった。否、想像出来ていなかったという方が正しいかもしれない。最近どこで何があったとか、好きな食べ物の話とか、そういった話題ばかりだった。この間出掛けた先で見つけたスクラップがもしかすると、最新の通信機のものと同じ部品が使われているかもしれないという話をすると、それを聞いたジェンカは庁舎で最近使わなくなったものがあるから持ち帰って構わないと申し出てくれた。目を付けていたスクラップ品ですら貯金を考えると買う事を戸惑う額だったため、二人にとっては大変有り難い話だった。