分化するとき
ソラは自分の承諾を得ることなくムギがそのような事を言い出したものだから、驚いてムギの顔を一瞬だけ凝視した。ただ、何か抱いていた懸念すら杞憂だと感じたのか、そうだね、とぼそりと続ける。
「それは良かった。いきなり来てこんな事を言うようだったから、嫌われてしまうかと思ったよ。まぁ、まだそんなに深刻に考えなくていいから、ね?」
公務の合間に訪ねたという事もあってか、コーヒーごちそうさまと笑顔で言ってジェンカは、忙しそうに家を出て行ってしまった。玄関先まで見送る事すら出来ないまま二人はどことなく呆然と、扉が閉まるのを見ていた。ムギはソラに相談する事も無く夕飯をご馳走になるという話をとりつけた事が少し気まずくて、空になった自分のカップを指先で遊びながら気付かれないようにソラの様子を窺っている。怒っているだろうかと思っていたのだが、まだ何か考えている様子だった。
「……ねぇ、どうして、あんな事言ったのさ」
気まずいとは思いながらも、この話題に触れざるを得ない状況の中で先に話を始めたのはソラだった。どう説明すべきかずっと考えながら、そっと表情を窺っていたムギは待っていたと悟られないように少しだけ間を空けて続ける。
「……養子とか、そういうのはちょっとオレもまだ実感無ぇから何とも言えねーけど、でも、やっぱりこれからもなるべく今までと同じ生活を送るとしたら、何かしなきゃならねぇのかなって思って。ジェンカの厚意も、この段階じゃ結構有り難いかなって思ってさ」
「まぁ……そうだけど。……うん、夕飯一緒に食べて、ちょっと、相談とかもしたいし、いいかも」
ソラが納得したように言葉を反芻しているのを見て、ムギも、それは良かった、と笑顔で答える。ソラが飲み終えたカップと他のそれらを両手に持って流しの方へと持って行く。
自分の決断を後押しするように納得してくれたソラには申し訳ないかもしれないが、彼の申し出を聞いた時点では内心大きな迷いがあった。もしこのまま、違う家の子になってしまうのか? 成人後に追認すれば養子として認められるとはいえ、失踪した親をまるで初めから無かったものとしてしまうようなものなのでは? 書類上は養親としての記載があったとしても、この村ではよその家の子になったと見られてしまう? そうなるとすると、この家も工房も店も、親から受け継いだ大切な思い出というよりも、自分達についている単なる付属物になってしまう? 失踪しただけで生死不明だというのに、そこまで踏み切る決断をしてしまって良いのか? たとえ、様子を見るために夕飯をご馳走になる、としただけとはいっても、そのまま流れで安易な決断をしてしまうのではないか? それは、自分達にとって良い事なのか。どんなにソラが納得してくれたとしても、彼を不幸にしてしまう事は即ち自分の不幸だ。
そこまで考えたところで、いつの間にか横にいたソラが自分の洗ったコップを拭いているのに気付く。ぼうっとしているところを気付かれやしなかったと一瞬背が冷えたが、ソラもどことなくふわふわと浮き足立っているようだ。自分ももしかしたら、これと同じような顔をしていたのかもしれない。気付かれてはいないようだと知って、そっと胸をなで下ろす。
「なんだか……僕らが感じている以上に、今って大変なのかもね」
「……そう……かも、な」
きっとこの話も、明日になれば村の人が知っている事だろう。今日の毎日村を回っている彼の事だから、この家を出た次に訪れた先で何か聞かれるかもしれない。悪意は無いものの、聞きづらい話題な上にまだ二人は子供だ。込み入った話など分かるまいと思われているだろうし(傍目にはそう見えているが、ここ最近はずっと二人で過ごす事が長くなると直感的に分かっていた事もあって、そこまで無知蒙昧というわけではなかった)、何より村でも好かれていた両親を失った事は村民としても少なからず胸が痛むところがあるのかもしれない。そういう意味で、ジェンカは中立的な立場にいた。彼がこの地へ来て二年目になるが、誠実そうな人柄から、このような厚意があっても不自然ではないと思われるだろう。
とはいえ、まだ心の整理がついていない。二人だけで生活する事に慣れてきた頃とはいっても、まだそれは仮の状態だと思っていたからこそ出来ていたという事もあろう。自分達が目を瞑っていた、複雑に絡み合うチクチクとした現実の壁がぐっと顔を屈めてこちらに降って来ようとしている、呆然と二人は立ち竦むばかりだ。そしてムギは、ソラの様子を見て自分もまた同じ状況だという事を自覚させられる。この現実が自分たちの方へと屈んで包み込んでしまう前に押しのけるか、逃げるかしなくてはならない。ただ、ここから逃げるとすれば、どこまで? 一体どれほどの高さがあるのか? それすら分からない中では、矢張りこれがゆっくりと頭上にまで屈んでくる前に、押し返してしまう方が得策だ。だからこそ、自分から踏み込んで行かなくてはならない。反射的に両手で壁を突き返していたのが、まさに彼の申し出を受け入れた事そのものだった。ソラもまた、足下が覚束ないとはいえ同じように立ち向かおうとしている。彼の足がその場で滑ってしまわないように、押し返す手に躊躇いが出て怪我をしてしまわないように、兄たる自分が勇敢に立ち向かう姿を見せてやらなければならない。ムギはすっと深呼吸した。
「……ま! 何とかなるだろ。少なくとも、ソラみたいに目玉焼きがヘタクソじゃなければあんな事言って来ねーだろうし、楽しみだな!」
「うるさいな、僕は卵焼き派なの」
ムギがケラケラと笑うと、ソラも口答えしながらくすくすと笑う。そうだ、きっと、二人ならばどうにかなるはずだ。