分化するとき
どこか妙な気はしていた。帰ってくると言って出て行ったまま、一ヶ月は経過している。いくら遠出をするとはいえ、二人を残して三週間以上家を空ける事など未だかつて無かった事だった。ただ、どうしてかその話は二人の間でしかしない方が良いのではないか、という共通認識だけはあった。とはいえ、小さな村であるし、さすがに一ヶ月もの間子供二人を残したまま行方不明になる事はいつの間にか知れ渡ってしまっていた。
そうとはいえ、その事実を取り上げて後ろ指をさされるというわけではなく、人に会うたび心配げな目線を向けられる程度だった。兄弟間ではふとした瞬間に、どうしたのだろうかという推論などが交わされていたものの、村人からはそのような直接的な訪ね方をされる事は無かった。聞かれずとも、それに答えてすっきりしてしまいたいという気持ちは強かったが、自分達の推論を裏付ける具体的な証拠が手元にあるというわけではなく、結局はいつも通り平気そうな顔で過ごす事が得策であると落ち着いてしまっている。
全く知らないというわけではなかった。父が同じように帰らなくなったのは当初家庭内の不和かと言われたりはしたが、全くそのような事もなく、依頼先で何らかの事件に巻き込まれたか、帰れなくなったのだろうと推察するに至った。母に関してもまた、同じなのだろう。夫の工房を継いだとはいえ、原料の調達等の費用だけではなく、維持管理費や配達賃、更に育ち盛りの子供二人を抱えるとなると、夫が失踪した直接的な原因と考えられる遠出の依頼を敬遠するわけにもいかなかった。
ムギやソラも近所の頼まれ事や近くの村まで行ってちょっとした頼まれ事などをして生活費の足しにしてはいたが、今から約5年前に首都で始まった技術革新の契機が辺鄙な村々にまで波及してきた事もあり、今までの素朴な作りや素材では対応しきれなくなっていた。原材料費がかさむだけならまだしも、次々とこの辺りでは見たこともないような設計図などがあると気になってしまう。露天で買わずにじっと見て暗記をした事もあったが、行商人の場合は気まぐれにいなくなってしまうためそうしてばかりもいられない。結局はスクラップ同然となった使い古しを購入して分解して研究するか、修理して付加価値をつけるという形に落ち着いてきた。これであれば、高価な原材料費や設計図の購入に頭を悩ませなくて済む。このような安定した手法を築いた矢先の出来事だった。忙しげな日々の中で、遠出の依頼が増えた母とはなかなか顔を合わせる事も出来ずにいたため、失踪したのではと言われるまで、いつも通りの生活が続いていくものだと思っていた。否、そのような話をされた今ですら、夕方家に帰るとスープを作って出迎えてくれる気がしてならなかった。
葬儀をするでもなく、墓を作るわけでもなく。只々、しっかり握っていた掌から砂のようにさらさらと、その存在が風に流されてしまうような感覚だ。もしこれが、目に見える墓といった形を持っていればそこに泣きついたりする事も出来たろう。泣きたいわけではないが、何かしらこの手で触れられるものがあれば、こんなにも顔を上げた先が暗闇に閉ざされる筈など無かったと思う。だが、伸ばした指先すら黒い闇にしっとり包まれてしまう一方で、もう片方は残された双子の片割れの手を握っていた。その場にうずくまって顔を上げようとしないソラの手を、砂のように離してしまわないように、しっかり握る。このまま隣で一緒に泣いてやる事も出来たろう、ただ、兄たる自分がそれを許さなかった。少しだけ力を入れて立ち上がらせると、不安げに見上げてくる、その怯えた目は正に自分のそれと同じだ。だからこそ、満面の笑みで励ましてやらなければならない。何も不安に思う事など無いのだと、目を瞑って、しゃがんでいるから眼前に闇が広がっているだけなのだと。自分の恐怖を持ち上げて、光にかざすように手を取り合う。全身を黒く覆っていた不安が溶けて足下に落ちてゆく。それを見計らったようにまた、一歩ずつ踏み出してゆく。
「養子って……」
唐突な申し出だ、と思った。休日の昼過ぎに双子の家を訪れたのは、数年前村長に就任したばかりのジェンカだ。30代前半頃の青年で、首都から派遣されて来たのだという。首都のアカデミーで地方行政を専攻し、連邦政府の中でも中堅の地域で行政官としての仕事をしていたそうだが、どうしてかこの村で長を務める事となったらしい。当初は何か事件を起こして左遷でもされたのではないか、という芳しくない噂もあったのだが、村の住民全ての生活や困っている事などをきめ細やかに把握し誠実に対応する姿から、今ではそのような噂も消えてしまっていた。
「いや、急な話ですまないね。ただ、君たちがもう16とはいえ、成人するまでの間誰の庇護も無いまま生活するというのを見過ごすのは、ちょっとどうかと思ってしまって」
立ち話も何だから、とリビングに通す。ムギは煎れたコーヒーをジェンカに差し出しながら、応対したソラの隣に座る。
今日で丁度、母が家を出て一ヶ月だ。それを見計らってなのか、村長が家を訪ねてきた。養子という言葉の重みに二人の肩が強張ったが、確かに今までは小遣い半分生活費半分で生計を立ててきたものの、今後は取引先との調整だけでなく税金の申告や事務手続きなど不慣れな事も増えるだろう。更に、村内であるならまだしも、首都へ何らかの申請を行う場合に18歳未満となると親権者の同意を取り付けなければならないものも幾らかある。幾つか適当に誤魔化して手にした書類はあったものの、まだちょっとしたものだったためお目こぼしを受けているという程度のものだ。今後は彼の言うように、庇護無しに漫然と今までの生活を続ける事は難しくなるだろう。
「ただ、養子という形をとるのはちょっと……僕は、まだ気持ちの整理が」
「……うん、オレも」
二人が申し訳なさそうに目線を逸らすと、ジェンカは苦笑して、そうだよね、と言った。
「ただ、何らかの庇護を受けているという体裁を取る事は必要だと思う。君たちが望もうと望まざろうと、この村を預かっている身としては、とても危うくて見ていられないからね」
「……」
「だから、書類上はまだ養子ではないとしても……そうだね、夕飯を一緒に食べる、とか、そういう事から始めるのはどうかな?」
穏やかな提案にムギがぱっと顔を上げる。まだ現実の認識が全身に行き渡らない中での養親の申し出であった事もあり頭がうまく回っていなかったのだが、単純化すると、家族らしき体裁を取れば良いのだ、という事だろう。あと2年もすれば首都の法律的にも自己管理が出来るようになるのだから、それまでの間形として預かって貰う、という認識だ。いいのではないか、という表情でソラの方をちらと見たが、険しい表情はあまり変わっていないようだった。気まずい沈黙が流れようとしていたので、ムギは目の前のコーヒーを一気飲みして続けた。
「んー、込み入った話は良く分かンねぇけど、もうちょっと時間が欲しいかな。もし良かったら、明日夕飯ご馳走になりたいなーなんて」