みのるくんとしずくちゃん
「あの蝶ね、朝から晩までずっと塀の影に隠れてみのるのこと見てんのよ。足の先から頭のてっぺんまで雪に埋もれて、ガタガタ震えてさ。蓑もないくせに、バカじゃないの?……まあ別に、あたしはあいつがどうなろうと知ったこっちゃないんだけどね。ただあそこで凍死でもされたら、どうせ死体を片づけるのはあたしでしょ? あんたたち働かないじゃない。まだまだ冷えるってのに、そんな面倒御免被るわ」
これを聞いたごろうくんは、一瞬驚いたような表情をしましたが、やがて不穏な笑みを口元に浮かべて、こう言いました。
「あけみさん、気のせいだったら謝りますけど、しずくさんの目的がアニキだって、最初から気づいてたんじゃないですか? それであの日わざわざアニキを誘って、しずくさんに会わせてあげようと――」
「は、はぁ!? 何言ってんのよあんた、ばっかじゃないの!? どっかの誰かさんじゃあるまいし、好き好んでそんなくだらないことしないわよ!」
「へーぇそうなんですかー」
お待ちかねの好反応に、にやにやするごろうくん。
やっぱあけみさんはこうでなくっちゃなあ……ぐふふ。
輝いています。
相手の顔に暗雲が立ち込めていることにも気がつきません。
「(……はっ! ヤバい……)」
ようやくその劇的な表情の変化を察知した時には、もう何もかも手遅れでした。
「さっきからこっちが下手に出てりゃー調子に乗りやがって……あんたはおちょくる相手を間違えたようね、ごろう!」
鬼神のごとき形相。
ターザンの構え。
「ちょ……ちょっと待って下しあ俺はただ思いついたことを述べたまでであっあああああああああああああああああ」
「……ん? 何か今悪寒が……風邪かな?」
ごろうくんが断末魔の叫びを上げたちょうどその頃、みのるくんは森の入口にいました。
先日と同様さとこちゃんの力を借りることができたので、思っていたより早い到着です。
そしてそこにはしずくちゃんが待っていました。
相変わらずとぼけた顔をして空を見ているみのるくんとは対照的に、しずくちゃんは緊張でまともに顔を上げることすらできず、もじもじしながら、「あの……」とか、「えっと……」とか、声にならない声を上げています。
ときどき聞こえてくるのどかな鳥のさえずりが、なんとか二人の間を取り持っていましたが、いつしずくちゃんが場の空気に耐えられなくなって逃げ出してしまってもおかしくない状況でした。
永劫に続くかと思われたこの(一方的な)緊張状態を破ったのは、みのるくんの突然の一言でした。
「ねえ、ちょっと付き合ってくれる?」
これは間違いなくデートのお誘いだわ、としずくちゃんは思いました。
二人っきりで「付き合ってくれる?」だなんて。
これをデートと言わずして何と言いましょう。
デート。デート。デ、イ、ト。ああ、なんて甘美な響きなのかしら……。
「……顔が赤いけど、大丈夫?」
「えっ!? あ、はい、何でしょう?」
あまりの幸福に我を忘れていたしずくちゃんは、さっきからずっとこんな調子でみのるくんの言葉を訊き返しています。
そんなしずくちゃんの様子がおかしいのか、みのるくんはくすくす笑っています。
その横顔を眺めてまたうっとりと夢の世界に浸るしずくちゃん。
傍から見れば絵に描いたような幸せなカップルです。
ミノムシと蝶のカップルであることを除けば、の話ですが。
「着いたよ」
そうみのるくんに言われて、しずくちゃんは周りを見渡し、やっと自分が今どこにいるのかを悟りました。
周囲に広がるのは、整然と区画された花壇の列。
ここは磯村家で唯一人工的な手入れが施されている、中庭です。
ちょうど磯村家のリビングの大きな窓から見渡せる、日当たりのよい位置にあり、さとこちゃんやお母さんが窓際に頬杖をついてその景色を楽しんでいることもしばしばです。
花壇にはお母さんの好みでいくばくかの花が植えられています。
今は季節が季節なのでその数も少ないですが、それでも他の庭よりは格別に綺麗なので、虫たちの憩いの場にもなっています。
要するに、まさにデートにはうってつけ、といった態の場所なのです。
みのるくんにしてはこの上なく正しい選択だったと言えるでしょう。
しかし、しずくちゃんの表情は意に反して暗いものでした。
「あ、あの……申し訳ないんですけど、別の場所に……」
そう彼女が言いかけた時でした。
「あらぁ? そこにいらっしゃるのはしずくちゃんかしら?」と、二匹の頭上から、やけに威圧的な声が聞こえてきました。
声の方へ首を回したみのるくんが目にしたのは、豊かに繁るクロッカスの花と、そこに点在する蝶々たちの姿でした。
みな比較的派手な身なりをしていますが、しずくちゃんと同じ種類の蝶のようです。
声をかけられて一瞬びくっとしたしずくちゃんでしたが、ためらいながらも彼女たちの方に向き直りました。
しかしその顔は「恐れていたことが起きてしまった」とでも言いたげな表情を浮かべており、向き直ったのはいいものの、結局うつむいて口をつぐんでしまいました。
そんなしずくちゃんの挙動を見て、さっき呼びかけた、ひときわ大きくけばけばしい模様の羽を広げた蝶Aが、こう言いました。
「ふふ、その洗練されたお辞儀はやっぱりしずくちゃんね。あなたがいつもあまりにヘコヘコしていらっしゃるものだから、お顔を見なくてもわかるようになってしまいましたわぁ」
蝶Aがそう言うと、蝶たちはひとしきり笑いました。
しばらくすると隣の蝶Bがもったいぶった様子で言いました。
「それにしても、あなたがこんな所へ来るなんて、どういう風の吹き回しかしら?……あぁ、もしかして、わたくしたちを見習って優雅な日光浴をお楽しみに?」
するとそのまた隣の蝶Cが、「あらBさんったらやだ、しずくちゃんはまともに羽を開くこともできないんだから、そんなこと言っちゃ可哀想じゃなーい」
「ああいけない、忘れてたわ! ごめんなさいしずくちゃん、わざとじゃないのよ!?」
けたたましい笑い声。
しずくちゃんは何も言えないまま黙って下を向いています。
「そういえば、お隣の殿方はどちら様かしら? 見たところ幼虫のようだけど……お子さんかしら? それとも……お付き合いされてるお方かしら!?」
「ちょっと、滅多なこと口にしちゃダメよ。恋人が幼虫だなんていくらしずくちゃんでも不憫すぎるというものよ? あれはきっとペットだわ」
さらに大きな笑い声。
しずくちゃんは、ついに耐えきれなくなったのか、笑いが止む前に「もう、行きましょう」と言ってみのるくんを引っ張りました。
しかし。
みのるくんは動こうとしません。
「ど、どうしたんですか?」
みのるくんはしずくちゃんの問いかけにも応じず、無言で彼女の手を引き、蝶たちのとまる花の方へと歩き始めました。
それに気づいた蝶たちは、少し取り乱した様子で、
「な、なによ」
「幼虫ごときが、わたくしたちに手を出すつもり!?」
「そんなことしたらたたじゃ済まないわよ!? わかってるの!?」
などと口々に言いました。
「みのるくん、彼女たちに何かするのはまずいです、本当ですよ?」
作品名:みのるくんとしずくちゃん 作家名:遠野葯