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みのるくんとしずくちゃん

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「私、飛ぶのすごく苦手なんです……というか、羽を開けないんです。あの女の子が来たときは、パニックになっちゃって、仕方なく飛んで追いかけるしかなかったんですけど……やっぱり上手く行かなくて、あちらこちらに方向が逸れちゃって……」
 それでさとこちゃんの後ろに上手く隠れられず見つかってしまったのか。
 みのるくんは一人で納得しました。
 しかし、とみのるくんは考えます。
 話している様子を見れば見るほど、この蝶は悪だくみをするような柄には見えないんだけどなあ。
 一向に顔を上げる気配のない蝶を見ながらみのるくんは首をかしげました。
「ああそう、別にそれならそれでいいけどさあ、」
 あけみちゃんの口調はやさぐれていく一方です。これではどちらが加害者だかわかりません。
「あたしが聞きたいのは、なんであんたがあたしたちをつけ回してたのかってことよ! 蝶のあんたがミノムシつけ回して何になるわけ? ひょっとして鳥と賄賂のやりとりでもしてんの? もしそうなら容赦しないわよ……あたしがそう簡単にやられるタマだと思ってもらっちゃ困るわ!」
「そ、それも違います、誤解です! 危害を加えるつもりなんてこれっぽっちもありません!」
「……ふうん、じゃあ、とっとと目的を言いなさい。悪意がないってんなら言えるはずでしょう?」
「そ、それは、その……」
 蝶は口をつぐんでしまいました。
 顔が真っ赤で今にも煙が出そうです。
 プライドを叩き折られた羞恥心で真っ赤になってるのかなあ、とみのるくんは呑気に思いました。
 しかし彼のそんな態度が続いたのは、次の言葉を聞くまでの束の間でした。
「その……私、私は…………みのるくんのことが、好きなんです!」

 
 話の概要はこうでした。
 蝶は名前をしずくちゃんといい、実はみのるくんと会ったことがあったのです。
 しずくちゃんがまだ幼虫だったころのことです。
 季節は秋。
 秋といってもまだ夏の暑さが残る9月でした。
 生まれて早々人間の子供に捕まり、灼熱のアスファルトの上に投げ出されたしずくちゃん。
 自分が今どこにいるのか、これからどこに行けばいいのか、何もわかりませんでした。
 ああ、私、もう死ぬのかな……短い命だったなあ……。
「ごめんね、お母さん」
 最後の力を振り絞ってそう呟いたとき、
 突然、自分の体が宙に持ち上がるのを感じました。
「少しだけ、少しだけ、我慢しててね」
 自分を背負っているのは一匹の幼虫でした。
「近くに水たまりがあるから」
 しずくちゃんは声を上げることもできず、小さく頷くばかりでした。
 

「ふーん、それでずっとアニキのことを想っていたわけですか……一途な子ですねぇ、俺、泣けてきちゃいましたよ」
 そう言ってしらじらしい嘘泣きをするのは、みのるくんの左隣にぶらさがっているごろうくんです。
 ごろうくんはみのるくんやあけみちゃんより数か月遅れて東塀に生を受けた雄のミノムシです。
 理由はよくわかりませんが、みのるくんのことをアニキと呼び勝手に慕っています。
「そう言われても、僕にはまったく覚えがないんだよね……」
 みのるくんはためいきをつきながら呟きます。
「覚えてない、ですか。さすが色男は言うことが違いますね!」
「笑いごとじゃないってば……あけみちゃんもなんだか機嫌が悪いし、踏んだり蹴ったりだよ」
 みのるくんの視線の先にはあけみちゃんの蓑があります。
 しずくちゃんは告白の後、「あ、いきなりごめんなさい、こんなこと……みのるくんにも考える時間が必要ですよね?……えーと、その、お返事待ってますから、ずっとここで!」とだけ言って逃げるようにその場を去ってしまいました。
 みのるくんとあけみちゃんはそれ以降一言も口をきいていません。
 お互い何も喋らず、長い帰り道をひたすら歩き続けました。
 東塀に帰ってくるとあけみちゃんはすぐに蓑にこもり、そのまま今に至るというわけです。
「で、どうするんですか?」
 にやにやしながらごろうくんが尋ねました。
「愛人の気持ちに応えて、本妻とは離婚ですか? それとも、鬼嫁の許しを請うために、乙女の純情な感情を踏みにじっちゃうんですか? どちらにせよ罪な男ですねぇ」
「君、本当に楽しそうだね……」
「他人の色恋沙汰ほど面白いものはないですから」
「へぇ……なんだか、すごくいい表情をしてるよ。いつになく輝いてる」
「いやあ、アニキに輝いてるなんて言われると謙遜しちゃいますよー! あはは!」
 厭味なんだけどな……。
 みのるくんは肩をすくめて、
「はあ。女の子ってよくわからないや」
 と、困り顔のまま、空を見上げました。
「雪、やまないねぇ」


 数日後。
 薄くなった雲の上から、幽かに日の光が透けています。
 冬と春のちょうど真ん中に位置するような、どこかおぼろげな朝です。
 誰もが目を細めて空を見上げたくなるような、そんな雰囲気が辺りに満ち満ちています。
 しかしあけみちゃんは独りそんな空気に対抗するかのごとく周囲に殺気を振りまいています。
 みのるくんはぴくりともせず、自然の流れに己が身のすべてを任せるかのように、いつもの調子でぶら下がっています。おそらく寝ているのでしょう。
 ごろうくんはそんな二匹の様子を少しはらはらしながら窺っていました。
 緊張を破ったのはあけみちゃんです。
「みのる! 起きなさい!」
 鋭い声。
「……ふ……ふぇ?」
 少し間を置いて、それとは対照的な、寝ぼけた声。
 みのるくんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、あけみちゃんのいる方を見上げました。
「なんだよ、ピリピリしちゃって……こんなに気持ちのいい朝なのに。たまには君もゆっくり睡眠を楽しんでみたらどうだい?」
「こんなに気持ちのいい朝だからこそ寝てちゃ勿体ないんじゃない!」
「……うん、それも一理あるけどさ。でも君が僕にそれを強いる理由なんて――」
「あーっもううるさい! 理由? あんたの寝顔を見てるとイライラすんのよ! それで十分でしょ! わかったらとっととあたしの視界から消え去りなさい!」
 あけみちゃんのあまりの傍若無人ぶりに言葉を失うみのるくん。
 一体僕が何をしたと……。
 しかし、あけみちゃんが既に「ターザンの構え」に入っていることを考慮すると、そんな反論をする余地もなさそうです。
 困惑した表情を浮かべていたみのるくんでしたが、すぐに頭を切り換えると、何も言わずそそくさとどこかへ行ってしまいました。
 みのるくんが出て行くと、長い沈黙が訪れました。
 ふいにごろうくんがこう尋ねました。
「……よかったんですか?」
「……何の話?」
 あけみちゃんは先程までの殺気が嘘のように、あっけらかんとしています。
「わざと、ですよね?」
 少し間を置いて、あけみちゃんは答えました。
「あんたは本当にやり辛いわね」
 この言葉に対し、やけに素直だな、と内心驚きながらも、「さすがにわかりますって。……どうしてですか?」とためらいがちな様子を演じるごろうくん。玄人です。
 あけみちゃんは、自嘲気味に、ふん、と鼻を鳴らしました。