コスモス2
タカやんが飛び降りたビルは、三年ほど前に倒産した会社でそのまま荒れビルとなってしまったものだ。タカやんは、どうやらそのビルに入る術を知っていたようだ。タカやんの一件以来、そこは立ち入り禁止のオレンジ色の囲いで塞がれていた。
お菓子やジュース、漫画や花束がたくさん供えられている場所へ行って、そこに私が今まで備えたコスモスの花を見つけた。まだ生気を保っているものもあれば、完全に変色して枯れてしまっているものもある。そこに、持ってきたコスモスを供えた。毎日、夕方ごろを見計らって供えにくるようにしている。隣に置かれた大きな百合の花束は、もうすでに花びらが茶色く濁っている。
寂寞たるこの空間が、無性に嫌だった。
このまま、一年も経てばタカやんは忘れられてしまうのだろうか。
一年間に三万人以上が自殺すると云われているこのご時世で、タカやんの死は、世間からすればその中のたった一例に過ぎない。計算すれば、毎日八十人が、自らその命を握りつぶしてしまうのだ。自分で自分を殺すことを、自分が他人を殺すこと、また他人が自分を殺すことのように、各メディアは取り上げない。同じ殺人なのに。殺す方も、殺される方も、同じことを望んで、悲しい結果しか導き出せない、こんなに悲しい殺人なのに。
八百屋のおじさんの張り上げる声、おばさんの立ち話、女子高生の笑い声、子どもの泣き声、自転車のベル、救急車のサイレン、CD屋さんから流れるロックミュージック。さっきまで気にならなかった、商店街の色んな、ありとあらゆる音が、とても耳障りだった。なんで、こんなにみんな知らないんだ。どうして、こんなに明るく、賑やかにしていられるのだろう。
タカやんは、もうこの世にいないんだよ?
吐き気がする。家に帰ると、部屋に閉じこもってベッドに倒れこんだ。このまま、悪い夢なら覚めればいいのに。
どうしていなくなったのが、あの八百屋のおじさんじゃなくて、あのうるさいおばさんたちじゃなくて、あの大声で笑う女子高生じゃなくて、あの泣いて母親を呼ぶ子どもじゃなくて、あの自転車じゃなくて、あの救急車じゃなくて、どうしてタカやんだったのだろう。
翌朝、私はいつもと同じようにコスモスを活けかえて、何もないように一日を過ごした。五時間目のホームルームの時間に、先生が席替えをしようと云いだした。