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坂の途中

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 お母さんの指が、茂宮くんの髪を梳かして、そのまま首筋を撫でた。
「女の子みたいな髪をしてるのよ、誠二ちゃんは」
 言葉は半分、ぼくを向いていた。でも彼女の目には、彼しか映っていなかった。
 彼女は何度も同じことをした。
 そのたび、彼の髪は小川のようにさらさらと小さく音を立てた。
 ぼくが知る茂宮くんの髪は、いつも濡れていた。乾いているのを見るのは、そのときが初めてだった。
 茂宮くんのこめかみを、一粒の汗が伝った。彼はうつむいて、自分の両膝を固く握りしめていた。震えないように抑えつけているのだと思った。
 口を開いて、何か言おうとして、閉じた。
 ぼくも茂宮くんも、それを繰り返した。
 酸素が足りなかった。息継ぎのやり方を必死に思い出そうとした。体に染みついたはずの一連の動作。ぼくたちが積み上げて、積み上げて、当たり前になっていたはずのもの。
 何も通じなかった。
「あのさ」送りの車に乗り込もうとするぼくに、茂宮くんは尋ねた。「気持ち悪かった?」
「え? なにが?」
「母さん」
「……なんで?」
「ベタベタしてさ」
「ああ……ううん、気持ち悪くなんかないよ。きれいなお母さんで、うらやましくなっちゃった」
「そっか」茂宮くんは笑ってみせた。「よかった」
 次の約束はしなかった。
 夏休みも半分が過ぎた。当たり前だけど、ぼくの泳ぎは上達していた。100メートルくらいなら休まず泳ぐことができるようになっていたし、速さもクラス内では上の方だった。ただしそれは本気を出せば、の話だ。進級テストやタイム計測の際にはあえて手を抜いた。先生方の目を上手に欺く技術を教えてくれたのは、いうまでもなく茂宮くんだ。
「ねえ、なんで本気出さないの」
 その日、茂宮くんは休みだった。
「夏風邪だって。ほんと、貧弱なんだから。もやしみたいなやつ。……で?」
 お姉さんは人目につかない廊下の隅で、ぼくに詰め寄った。
「なんでなの?」
 ぼくは答えなかった。
「ふん」お姉さんは鼻を鳴らし、少し考える素振りを見せた。それからふいに唇を曲げて、ぼくの顎に手を当てた。「きみに見せたいものがあるんだけど」
 白い顔がすぐ上で見下ろしていた。顎を持ち上げられて、逃げることはできなかった。なまめかしい白が視界を圧迫した。
 醜い、とぼくは思った。茂宮くんにも、お母さんにも似ていなかった。同じなのは肌の色だけだ。
「秘密よ」彼女はささやいた。「あの子には秘密」
 この生き物はなんだろう。醜いのに、ひどくいい匂いがする。
 気づけばぼくはうなずいていた。
 そして、ぼくは坂道を上った。一度通ったはずだけど、車と徒歩じゃ印象がまるで違った。おそろしく急で、長い長い坂道だった。
 あの坂の上に住むやつらはな、宇宙人みたいなもんなんだ。近くに住む親戚のおじさんが、いつだったか、そんなことを言ってたのを思い出した。やつらはおれたちとは全然違う生き物なんだ。見下してやがる。いや見下してすらいないのかもしれん。おれの言ってる意味、わかるか?
 わかりたくはなかった。
 蝉の声がうるさかった。サイダーが燃料だった。あれがなかったら、麦茶を求めてあっさり帰宅していたと思う。だけどあいにく、ぼくの手には百円玉が一枚握られていて、坂の下には駄菓子屋が一軒立っていた。
 お姉さんは汗にまみれたぼくの手を取って、意気揚々と歩き出した。何か企んでいるのは目に見えていたけど、体中が火照っていて、逆らう気力は起きなかった。
 広い庭の隅っこに追いやられるようにして、小さな林が繁っていた。お姉さんはそこへぼくを引きずり込んだ。頭がぼーっとして、童話の世界に迷い込んだみたいな気がした。地面に群がる細かな花の群れを容赦なく踏んづけて歩いた。
 誘われるままに奥へ奥へと進んだ。どこまで行くのだろうと思っていたら、唐突にお姉さんは立ち止まり、茂みに身を隠すようにしてしゃがみこんだ。手招きに従って、彼女の隣に腰を下ろした。しーっ、と唇に手を当ててみせてから、彼女は茂みの向こうを指さした。ゆっくりと、ぼくはそちらへ目を向けた。
 小さな池が――いや、大きな水たまりがあった。
 そこで、二つの影が絡み合っていた。
 同じ色の真っ白な肌に、無数の水滴が浮かんでいて。彼らが動くたび、伝って、落ちて、弾けて。
 どちらも人魚のように見えたけど、足はちゃんと生えて、そして交叉していた。
 体が溶けていって、目玉だけが残った。そう、ぼくは見るのをやめられなかった。
「あれね、ただの水浴びなんだって」耳に熱い息がかかった。「でも、あたしは入れてくれないの」
 その言葉は、壁の向こうの雑音のようなものに過ぎなかった。
 だけど、交わり合う彼らの姿を介することで、それは毒を含む棘となりぼくに刺さった。
「ねえ、怒ってる? あたしのこと、卑怯だって思ってる? 違うよ。あいつが言い出したんだよ。きみに見てほしいって。嘘だと思う? 信じる信じないは、自由だよ。でも事実なんだよ」
 蝉の声と心臓の鼓動が爆発して暴れ回って、外から内からぼくを叩き壊そうとしていた。
 馬鹿みたいに血が騒いでいた。頭が沸騰して割れそうだった。体の底から、抑えきれず昂ってくるものがあった。
「おいで」と彼女が言った。
 こんなの偽物だ、と思った。
 それでもぼくは、逆らえなかった。
 無理とは知っていても、あんな風に壊されてみたかったんだ。
 それから、抜群に泳ぐのが速くなった。置いていかないでくれよ? と茂宮くんが繰り返すたび、大丈夫だよ、とぼくは答えた。彼は心の底から安堵しているみたいだった。
 そうして、夏休みの終わりの進級テストの日、全力で泳いだ。上のクラスへ行くことになった。
「正当にがんばって、正当に評価されただけでしょ。きみは正しいんだよ」
 彼女はそう言って、ぼくの頬を撫でた。
「おかしいのはあいつの方じゃん」
 茂宮くんはすぐに気づいたようだったけれど、ただぼくと距離を置くだけで、すれ違えば笑顔でやあ、なんて言ってきた。いっそのこと、なじってくれればよかったのに。
 ひとりでプールサイドを歩く彼の背中を見ながら、彼女はぼくといるどんなときよりも満足げな笑みを浮かべていた。そこでようやく、自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだと気づいた。
 夏の終わりとともに、ぼくはスイミングをやめた。彼にも彼女にも、何も告げなかった。
 半端な良心と半端な欲望だけが残され、一番大切なものを失った。人に心を預けてしまうことをやめた。それはきっと利口なことだった。完全な依存は、いつか破滅をもたらすだろう。ぼくは利口な選択をしたんだ。だけど、たとえ利口でも、正しいことだったとはどうしても思えない。ぼくにとって、利口と理想とは、けっして相容れないものになってしまった。
 あれ以来、定期的にある夢を見るようになった。夏がくるたび繰り返す。
 目の前には、あの25メートルプールがある。水底、中央に、ゆらゆら白いものが漂っている。
 茂宮くんの死体が。
 無数のチューブに繋がれて。
 ぼくを告発する。
作品名:坂の途中 作家名:遠野葯