坂の途中
それでもやっぱり、ぼくは泳いでいるときの彼の方が好きだった。最初の最初にみとめたあの姿こそが、本来の茂宮くんなのだと確信していた。彼はそれほど速く泳ぐわけではなかった。手を抜いていたのだ。当時のぼくには手を抜くという考えがなかった。いや、知ってはいたが、間違ったことだと思っていた。石頭だったんだ。彼にもそう言われた。それであっさり自分を翻した。利口にならなきゃ、と彼は言った。利口というのが正しいのか正しくないのかはわからなかったが、すぐにどうでもよくなった。彼の言うことがすべてだ。それでいいじゃないか、と。
手を抜いたからといって彼の美しさが損なわれることはなかった。むしろそうして故意に余裕を取り入れることで、彼のクロールには怠惰な優雅さが宿っているようだった。先にプールを出て、彼のその、無意識に凝縮された美しさの垂れ流しを観賞する。泳ぎ終わって、へらへら笑いながら歩いてくる彼を迎えて、お喋りをはじめる。授業中はずっとその繰り返しだった。泳ぐ、喋る、泳ぐ、喋る、泳ぐ、二人の彼が目まぐるしく入れ替わる。ぼくはたびたびめまいを感じた。単なる酸素不足だったのかもしれないけれど、ともかくそこには、弄ばれるような、自分を見失うような、おそろしい多幸感があった。一度味わえば二度とそれなしではいられなくなる、禁じられた快楽に身を染めているようだった。
月日は飛ぶように過ぎ去った。習いごとってはじめて数か月もすれば飽きてくるものだと思うけど、スイミングだけは別だった。毎週毎週待ち遠しかった。理由はいわずもがなだ。
あるとき、ぼくは風邪でスイミングを休んだ。休みたくなかったけど、39度では仕方がない。
「宅間くんがきてくれなきゃつまらないよ」
翌週、全力で休んでなんとか復帰したぼくに、茂宮くんはそう言った。
「これからは、勝手に休むのはやめてくれ」
さりげない言葉だったけど、体の芯が熱くなるのを感じた。
それまで、茂宮くんが話しかけてくれたのは、結局憐れみからだったのではないかと思っていた。新しいクラスになじめずにいるぼくを気遣ってくれたのだと。だけどその言葉で、それは違うとわかった。彼にはぼくでなければならなかったのだ。ぼくたちの他にも同年代の子はたくさんいたけど、ぼくたちはぼくたちでしかつるまなかった。ぼくたちの信頼は、依存は、互いに同じ重さだったのだと思えた。
茂宮くんの学校生活をぼくは知らない。ここでの学校とはもちろんスイミングスクールではなく、小学校のことだ。茂宮くんは私立の学校に通っていた。ここいらでは割と有名な小中高一貫校。冬がくると、制服がダサくて嫌だ、この季節になっても短パンなんだぜ、と彼はよく愚痴をこぼしていた。学校に制服があるということ自体、ごく普通の市立小学校に通っていたぼくからすると驚きで、他にどんな違いがあるのだろうと興味津津だったんだけど、茂宮くんが話すのは制服のことばかりで、当時のぼくは、制服、よほど気に食わないんだろうな、かわいそうに、自分は私立じゃなくてよかった、なんて話をそらされているのにも気づかず呑気に考えていた。
二月にはこんな話題が出た。
「宅間くん、チョコいくつもらった?」
「……ふ、ふたつ」
「それって、お母さんとおばあちゃん?」
ぼくは渋々うなずいた。
「おすそわけ、いる?」
「え?」
「下駄箱がいっぱいになるくらいもらったからさ。食べきれずに捨てちゃもったいないだろ」
「ダメだよそんなの」予想外に大きな声が出て、自分でも驚いた。「……くれた子がかわいそうだ」
元から白かった茂宮くんの顔が、さらに白くなった。口をパクパクさせて、「ご、ごめん」と喉に何かつかえているみたいな声で言った。
茂宮くんはしばらくの間謝り続けた。ぼくがいけなかった、ぼくの配慮が足りなかった、軽率だった、悪気はなかったんだけど、でもぼくが悪い、ぼくが悪かったんだ、ごめん、ごめん宅間くん、本当にごめん、だから、だから。
ぼくの赦しを得たとき、彼はまるで、出産が無事成功したことを告げられた父親のような顔をした。それが少し怖かった。その怯えは、気取られずに済んだけれど。
いつの間にか、彼と出会って二度目の夏が訪れていた。ぼくがスイミングをはじめて一年。七月の下旬。
その人の存在に気づいた。白い肌をした、背の高い女の子。女の子にしては、筋肉のついた、引き締まった体をしていて、見るからに泳ぎが得意そうで、実際そうだった。一つ上のクラスで、彼女はイルカというよりはモーターボートみたいに、定められた距離を機械的に往復した。楽しむためではなく、鍛えるために泳いでいる。そんな感じがした。
こういう人は、周りの人間に興味を示さないのが普通だと思う。そう思っていたからこそ、彼女がやたらとぼくの方を見てくることを、意識せざるをえなかった。最初は隣の茂宮くんを見ているんだろうと思ったけど、彼が泳いでいる間も彼女はお構いなしにぼくに視線をぶつけてきたので、どうやら勘違いではなさそうだと考えるに至った。
初めての接触は、向こうからやってきた。
「めずらしいね、あんたが男と仲良くしてるなんて」
授業後、校内のベンチでアイスを食べていたぼくと茂宮くんは、同時に振り向いた。彼女の目が茂宮くんに向けられていることはすぐにわかった。
「悪い?」
目の前で、茂宮くんの喉がごくりと動いた。
「全然。いいことじゃない。そうだ、今度うちにきてもらえば?」
「え……」
「お母さんも喜ぶでしょ」
「でも」
「きみは?」と彼女は――茂宮くんのお姉さんは、ぼくに言った。「遊びにこない? 広いし、高いお菓子もいっぱいあるよ、うち」
ぼくはすっかり舞い上がって、茂宮くんの反応を確かめることもなく返事をしてしまった。今なら多少は想像がつく。彼がそのとき、どんな表情を浮かべていたのか。
翌週、スイミングの後、茂宮くんのうちの車で、彼の家へ向かった。ぼくと茂宮くんが後ろに座るものと思っていて、実際そうしようとしたんだけど、お姉さんが茂宮くんを押しのけてぼくの隣に陣取るものだから、ひどく居心地が悪かった。お姉さんは明るく、優しく話しかけてくれたけれど、運転手のおじさんは黙ってるし、茂宮くんは助手席から恨めしそうにこっちをにらんでいたからね。
茂宮くんのお母さんは、茂宮くんにそっくりだった。生き映し、と言っていいと思う。鶴みたいにすらりとして、始終やわらかな笑みをたたえていて。
「パパは仕事ばかりでめったに帰らなくって、いつも寂しい家だから、宅間くんがきてくれて今日は嬉しいわ」
お母さんはぼくにお菓子をすすめながら、早口で言った。そう言われて気づいたけれど、広く高い茂宮くんの家には、ぼくの家にはないからっぽの静けさがあった。誰もいない学校の体育館を思い出した。
「誠二ちゃんも、そう思うでしょ?」
「ちゃんはやめてよ、母さん」
ぼくは笑いながら二人を見ていた。こちらがからかわれるばかりだったから、慌てふためく茂宮くんの姿は新鮮だった。嫌がって見えるけれど、心の中は違うんだろうなと思っていた。和やかで微笑ましい、親子の光景。
そう思っていた。
「この子ったら照れちゃって」