坂の途中
「きみはそのままで生きていける人間だったんだ。誰でもよかったんだろう。声をかけてくれるなら誰でも。おぞましい。虫のようなやつだ。耳の穴から入ってきて。ぼくの心を餌にして。食い潰して。満足したら、傷つく前に出て行って。どうしてだ。どうしてなんだ。きみはぼくを信じてくれたんじゃなかったのか。ぜんぶぼくの勘違いだったのか。だとしたらぼくは何を信じればいい。何に縋ればいい。もうどうしようもない。どうしようもなくなってしまった。なんてことをしてくれたんだ。きみがぼくを殺したんだ。壊し尽くしたんだ」
ぼくは激しい痛みに泣きじゃくりながら――途方もない喜びを感じている。
きみの言う通りだ、とぼくは思う。
そうだ、ぼくは虫だったんだ。
そして、私たちは立っている。坂の途中に。
ずっと立ちっぱなしで足が痛い。でもその疲労が、蝉の鳴き声と重なって頭をぼーっとさせて、上手いこと私を宅間さんの話に没入させていた。体がすうっと見えなくなって、私が私でなくなって、あとはただこの坂道だけが灼熱に揺らいでいるような浮遊感。戻ってくるのには時間がかかる。ゆっくりと地に足をつけて、適切な距離感を取り戻していく。
「彼は」と私は尋ねる。「彼はその後、どうなったんですか?」
宅間さんは黙って首を振る。顔を上げようとはしない。かわりに私が上を見る。
今もまだ、彼はいるのだろうか。この坂の向こうに。広くて高いお屋敷に。庭の隅の、林の奥に。
だけど、今更宅間さんがそこへ行ってどうなるというのだろう。古傷をえぐるだけじゃないのか。乗り越えられたとしても、なにが戻ってくるわけでもない。自分を変えられるわけでも。平静が訪れるわけでも。
彼を壊して、手に入れて。自分が快いのならそれでいいんじゃないか。私なら妥協する。それが次善の策だろう。
私たちは立っている。でも、と私は思う。宅間さんはもっと昔から、気の遠くなるほど長いあいだ立っていたのかもしれない。
子供のまま。理想を捨て去れないまま。
野球帽の少年がこぼしていったサイダーのしずくのなかで、羽虫が死んでいる。幸せそうに。
ふいに宅間さんが後ろを向く。足を踏み出そうとする。
私は私の役割を理解する。それが終わったことを理解する。
視界の端でなにかが動く。
死んだかに見えた羽虫が足掻いている。おとなしく死んでおけば、苦しまずに済むものを。利口じゃない。全然スマートじゃない。足掻くくらいならはじめから飛びこまなければよかったのに。
でも飛びこまずにはいられないし、足掻かずにはいられないのだ。結局のところ。
私は決意する。私に新しく役割を与えよう。
坂道のてっぺんを見据えて、今にも下りはじめんとする彼の手を取る。
引き留める。
私たちは立ち止まる。坂の途中。
どこからか蝉の鳴き声が聞こえる。