Blood Rose
炎茨
「誰……?」
少女は小さい背中を丸めながら、
ゆっくりと扉の向こうを覗いた。
外はまだ闇に支配されている時間帯だ。
蒸し風呂に居るような妙な熱気を持っている。
隙間に挿す灯りが紅を湛えていた。
薄暗くて中をしっかり見る事は出来ないが、
これは明らかに血の色だろう。
それも真新しい。
中の人物はもしかしたらまだ生きているかもしれない。
そう思って足を踏み出した瞬間、
肩が小さく震えた。
妙な圧迫感と吐き気がする程の不安に足が竦む。
後ろに誰か居る。
背後の気配に気が付いた時にはもう、
眼前に一面の血の海が広がっていた。
死後の世界が足元まで支配する。
このままでは本当に、
その世界に誘われる事は間違い無い。
そう理解しているにも関わらず何故だか体が動かなかった。
腰が抜ける以前に、
完全に硬直してへたり込む事すらも出来なかった。
体と脳が真逆の指示を出しているせいか、
自分の肉体を客観視している感覚に陥る。
少女の様子を眺めながら、
背後に立っている人物は笑っていた。
恐怖に歪む顔と悲鳴を拝みながら切り刻んで行く瞬間を想像してほくそ笑んだのだろう。
フッと鼻から抜ける様な嫌な笑い方だ。
それから一呼吸置いて、
空気と地面が鳴った。
何かを振り上げた風の音と、
腰を落として踏ん張った時に靴が擦れた音だ。
その何かが降り下ろされる一瞬前に、
少女の目に見慣れた藍色のローブが飛び込んで来た。
背の高い女性が一人と、
小さな少女が一人居た。
そこは神殿の裏手にある訓練場で、
的を前にして話をしている。
「ではいつものようにあの的へ、炎から風の順番で法術を放って下さい」
「はい師匠」
少女は短く返して目を閉じ、
精神を集中してから杖を握り締めた。
が、
そのまま沈黙する。
「……詠唱が思いつきませんか?」
女性の問いに、
少女は顔を真っ赤にして小さく頷いた。
「気にする事はありません。元はと言えば治癒系の神聖法術を専門にやっていたのでしょう?」
頭を撫でられて機嫌を良くしたのか、
少女は元気に頷いてから的に向き直った。
「イメージが上手く出来れば詠唱はいらないのですが、慣れるまでは赤や炎を連想する唱がいいですね」
師の助言でたどたどしいながらも少女の詠唱は完了し、
小さな火球が対象に襲い掛った。
少女は口を開き、
息を吸ってから再び意識を集中させる。
「鋭き風よ、悪しき者を切り刻めっ!」
杖を振ると風が唸り、
長い黒髪がふわりと浮いた。
それは一瞬静かになり、
突如斬撃の様な鋭い突風が少女を取り巻く。
ブォッ……
的を狙ったはずだがそれは対象を外れ、
相手の頭上で激しく弾けた。
圧縮した空気がぶつかり合う様な強力な衝撃だ。
力が逆流したのか、
目の前で発生した突風に少女は飛ばされ、
地面をかなり転がってから停止した。
「いった……」
それを見ていた女性は、
小さく唸ってから右手を上げた。
優しい輝きが包み込み少女の痛みを一瞬にして消し去る。
「若干集中力が乱れていたようですね。大丈夫ですか?」
「師匠……自信喪失しました……」
頭を撫でてやり、
今日はもう戻りましょう、
と帰宅を促した。
その日の夜、
元気付けようとはしたものの一向に少女の機嫌は直らなかった。
神殿騎士団が使用している宿で一人夕食を取った後、
そこの受付へ足を運ぶ。
「あらサーシャさん、こんばんは」
「いつもお世話になってます。私の教え子であるレイスがだいぶ落ち込んでいるようなので、元気付けてあげたいのですが」
そう言う事なら、
とレイスが気に入っているアップルパイを差し入れに持たせてくれた。
礼を言って彼女の自室へと向かう。
「レイス、居ますか?」
戸をノックして声を掛けたが、
残念ながら返事は返って来ない。
少し迷ったが過保護になり過ぎか、
と思い直して夜風に当たろうと外へ出た。
大聖堂の正面玄関から空を見上げると弱い雨が降り注いでは正面の池にいくつもの波紋を作っていた。
湿気による独特な香りが何かを思わせる。
何だか嫌な予感がする、
そう感じた時にはもう走り出していた。
一階にある図書室の西側出入り口に駆け込むと、
そこはもう地獄絵図と化している。
少し目を細めて周囲を見回すと正面、
東側に位置する半開きの扉が目に飛び込んで来る。
そこを覗き込むと中には一人の少女がいた。
その瞳はもう現世を見ていない上に、
背後には巨大な死神の鎌がある。
生きているの一言で片付けるにはいささか問題のある状態だ。
その光景を見た瞬間サーシャは杖を振り、
空間を歪めて一瞬にして少女の背後に躍り出た。
振り下ろされた鎌が目の前に迫る。
それをいとも簡単に受け止めてから鎌を持った男に顔を近付けた。
「貴方の相手は私が致します。レイス、怪我人の治癒を」
レイスは背中の糸が切れたかの様に一瞬よろけたが、すぐ我に返る。
「はい、師匠」
思いの他立ち直りが早く、
冷静に返事をするレイスを見て男は笑っている。
「二人とも中々の美人じゃねぇか。切り刻むのが楽しみだぜ」
金属音を響かせながら間合いを取ったが、
男はサーシャの持っている得物を見て少し目を細める。
「鎌使いか。見たところ司祭のようだが?」
サーシャが持っていた独特な形状の杖は形を変え、いつの間にか鎌のようになっていた。
聖堂で鎌を振り回す様子は普通ならば滅多にお目に掛れないが、
司祭がそれを主力としているのも極々稀だ。
「違いますよ」
否定はしてみたものの、
それは相槌に他ならない。
神殿騎士団の本拠地にも関わらず援護が来ないのは、
現在外界から遮断されているからだ。
現状でこの場に参入出来るのは図書室内で倒れている者達と、
サーシャとレイスに男だけになっている。
他に術者が居るのかもしれないが、
今はそれを考えている余裕は無い。
「これから死ぬんだから、嘘つくと成仏出来ねぇぜ」
これもまた、
相槌程度の台詞でしなかった。
お互いに攻撃のタイミングを図る為の猿芝居に過ぎない。
「……御黙りなさい」
双方の長い鎌が睨み合う中、
最初に静寂を破ったのは男の方だった。
サーシャの言葉を合図に右に振り上げられた鎌は、
手首を返して蛇のような不規則な動きを見せる。
男は遠心力を利用して大振りに薙ぎ、首を狙う。
サーシャは危な気無く屈んで回避したが、
男に隙は無かった。
空振りした鎌の勢いを利用して体を一回転させ、
垂直に降り下ろす。
ただの刀剣ならば受け止める事ならば容易だが、
鎌の先端を振り下ろすこの独特の太刀筋は槍で頭上から突かれるような形となる。
盾でも無い限りこれを得物で受けるのは不可能だ。
サーシャは両手で鎌を起こし、
地面に柄を当てて腰を落とした。
男の鎌に刃の腹が当たり、
切っ先を背後に突きつけられる形となって停止する。
「ただの法術使いでは無いと言う事か」
そう言うや否や、
男の鎌は湾曲したそれに滑らせる様にして右に動かす。
サーシャのもつ得物は刃先が左を向いたままで、
作品名:Blood Rose 作家名:日下部 葉