われてもすえに…
小太郎は彼女の身体を無心で抱き寄せた。
腕の中の彼女は驚いた様子だった。そんな彼女を安心させるため、小太郎は優しく声をかけた。
「……大丈夫ですか?」
「……はい。ありがとうございます。しかし……」
二人の顔が今までになく近かった。
彰子は顔を赤らめた。
そして、俯きながら言った。
「せっかくのお花が……潰れてしまいました」
小太郎と彰子の身体が密着しているせいで、花がぺちゃんこになっていた。
小太郎は花が潰れた事以上に、彰子の身体に触れている自分に驚いていた。
「あっ。すみません……」
身体を彰子から離し、速くなった鼓動を抑えようとした。
しかし、彼の耳にある声が届いた。
『小太郎、今だ! 今がお前の決心を言う時だ!』
小太郎の鼓動はそのおかげでさらに激しくなった。
そんな事とはつゆ知らず、小太郎の傍で彰子は花を懐紙に包んでいた。
「これでは生けられませんね。可哀想なので、持って帰って押し花にします」
しかし、小太郎は聞いていなかった。
聞ける心理状態では無くなっていた。
しかし、うるさく急かす神を丁寧に追い払った後、大きく深呼吸をした。
覚悟は出来ていた。
「あの……。彰子殿……」
「なんでございますか?」
彰子に一歩近づいた。
そして、彼女を見つめた。
曇りのない綺麗な彼女の瞳に見つめ返され、緊張はさらに増した。
しかし、小太郎は逃げはしなかった。
彼の手は、彰子の手を握っていた。
そして、言った。
「……江戸へ、戻らないで頂きたい」
「……なぜでございます?」
彼の頭の中を様々な言葉が飛び交った。
傍に居て欲しい。
文通ではなく、毎朝晩言葉を交わしたい。
ずっと一緒に居たい。
しかし、それらすべてを含む強い言葉が彼の口を突いて出た。
「私の、妻になって頂きたい」
二人の間には静かな時が流れた。
そんな二人を滝の音が包んでいた。
彰子の手を握る手に力がこもっていた。
驚いた彰子の顔は、しだいに和らぎ、ついには笑顔になった。
「……よろしくおねがいいたします。良鷹さま」
この言葉に、小太郎の緊張も解けた。
彰子にほほ笑んだ。
「……ありがとうございます。彰子殿」
「殿、その手は無しです」
「だったらちょっと待て」
政信と喜一朗は、庭の東屋で碁盤の勝負をしていた。
接戦が続いていたが、喜一朗がどうやら勝ちそうな勢いだった。
少し考えた政信だったが、突然ポツリと言った。
「いいぞ……」
「はい? 何がよろしいのですか?」
そのとたん、喜一朗の眼の前の碁盤が消えた。
「あっ!」
驚いた顔の喜一朗を見て、政信は笑いながら言った。
「おや。碁盤が消えた。これじゃあ決着はつかない。残念無念」
しかし、ここで退く喜一朗ではなかった。
「……元に戻せ」
小さく言うと、眼の前に元通りの碁盤が戻ってきた。
これで勝負は続けられる。
イヤミに見える笑みを浮かべる喜一朗を横目に、政信は本題に入った。
「ちっ。石を片付けておいてくれればいい物を……。で、どうなった?」
眼の前には『影』が居た。
囲碁を消し、また戻したのも彼の仕業。
彼は主から『小太郎と彰子の様子を見守る。』という命を受け、その結果のみを政信に報告した。
「万事順調」
「よし。二人を今すぐ茶会の席に連行しろ!」
「はっ」
そう言うと影は姿を消した。
二人は茶会の席へ向かった。
そこには二人の妻の姿があった。
蛍子は不安そうな様子で、政信に声をかけた。
「藤次郎、どうじゃった?」
「万事順調!」
この言葉を聞いた蛍子はホッと胸をなでおろすと、絢女に向き直った。
「絢女、彰子を頼む。あれは妾の妹も同じ。助けやって欲しい」
「はい。心得ました」
政信と喜一朗のように交流を深めた二人の女は、大分話に花を咲かせたようで、茶会の席でもその続きを始めた。
「……ところで、喜一郎の話しの続きじゃ。どこからだったかの?」
「そうでございますね……。新婚時代はお話ししたはず」
「そうじゃ。くすぐったがりの話であった」
この言葉に、喜一朗がピクリとした。
「……絢女? 一体何を話したんだ?」
「色々です。色々……。フフフ。そうでございますよね? 奥方さま?」
「そうじゃ。ホホホホホ」
女同士の笑い声と会話に怯え、立ち尽くした喜一朗に、政信は同情した。
「諦めろ。な? 諦めが肝心だ……。愚痴なら聞いてやるぞ」
そんな茶会の席に、小太郎と彰子が現れた。
二人は政信と蛍子の前に座った。
そして、小太郎は手をつき、良く通る声で言った。
彰子も彼に倣い、頭を下げた。
「殿、彰子殿と夫婦になる事をお許しください」
政信は即答した。
「許す。二人で仲良くな」
隣の蛍子は、涙ながらに彰子に声をかけた。
「彰子、よかったの……」
彰子も感無量で頭を下げた。
「……ありがとうございます。奥方さま」
喜一朗と絢女から、小太郎に声がかけられた。
「小太郎、一緒にがんばろうな!」
「大人になったわね。姉上は、嬉しいわ……」
「ありがとうございます。義兄上、姉上」
隣の彰子にも同様に声がかけられた。
「彰子殿、これからもよろしく。絢女が色々相談に乗ってくれる。な?」
「はい。彰子ちゃん、よろしくね。妹が出来て嬉しいわ」
「よろしくお願いいたします。義兄上さま、義姉うえさま」
三組の夫婦の良い雰囲気の場に、強い風が巻き起こった。
その風が収まった時、一人の老人が立っていた。
「……貴方はもしやあの時の?」
政信の言葉を制し、驚く皆の顔を物ともせず、老人は小太郎の方へ歩み寄った。
彼は下げた小太郎の頭を杖でちょんちょんと突きながら、少し不満げに言った。
「さっきワシを追っ払ったであろう?」
「申し訳ございません! 緊張のあまり、なにがなんだか……」
小太郎は畏まり、再び頭を下げた。
しかし、神は怒っていなかった。
「まぁよい。お前は自分でしっかり彰子に結婚を申し込んだ。……すべて上手く行った」
「すべて、ですか?」
今まで、次は何、次は何と言い続けてきた神が言った『すべて』という言葉が気にかかった。
「そうじゃ。……こりゃ失礼。お初にお目にかかる者も居たな。そこから言わねばならぬ」
咳払いをすると、神は話し始めた。
「我はこの国を守る神だ。太古の昔からこの国に居る。我の願いは、この国の安寧、繁栄。
それ故、藤次郎、喜一郎、小太郎。頼むぞ。そなたらの力が必要じゃ。我はそなたらを見越して、ここまで色々やってきた。期待にこたえてくれ」
「はっ」
男三人は、決意を新たに力強く返事をした。
「そして蛍子、絢女、彰子。夫を支え、国の力になれ。そなたらならばできるはず」
「はい」
満足げに夫婦三組を眺めた神だったが、蛍子の傍にいた侍女の真菜に気がついた。
「……真菜」
「はっ、はい」
突然の事に驚いた彼女は、続いて出た神の言葉にも驚いた。