われてもすえに…
「十年前、あれの一番は仕事、蛍子だった。しかし、今は違う」
「……なにが彼女の一番なのですか?」
「お前だ」
小太郎はその言葉に嬉しくなった。
彼の様子を見た神は続けた。
「とにかく。仕事は考えなくていい。今決まっていないのはお前の気持ちだけ。
茶会の日までに、決めるのだ。良いな?」
そう言って神様は消えた。
「嫁か……」
再び小太郎はそう口にした。
ぼんやりと縁側から空を仰ぐと、そこには月が出ていた。
「綺麗だな……」
小太郎は口にして、あることを思い出した。
それは彰子から『月にはうさぎが居る』という話を聞いたこと。
それまで彼は、月を座って大人しく眺めるなどということはしてこなかった。
彼女から物をじっくり見る事を教わった。美しい物を愛でる事を教わった。
彼女のおかげだった。
「……そうだよな。彰子殿のおかげだ」
小太郎は、その日の彰子との事を思い出した。
見晴らしの良い丘の上で、風に吹かれ気持ち良さそうに遠くを眺める彼女の顔。
話を真剣に聞いてくれ、ちょっとした冗談にも笑ってくれる。
彼女も興味深い話を聞かせてくれる。
それは文通よりも遥かに楽しい時間だった。
ここで結論が出るかと思った小太郎だったが、急激に眠気に襲われた。
酒が抜けてはいなかった。
「……少し考えよう。今日は無理だ」
そして、小太郎は結論を明日以降へ持ち越した。
茶会の日が来た。
小太郎は羽織袴姿で城への道を歩いていた。
すると、道場へ行く途中の親友二人と出くわした。
「お、小太郎、今日は城へ行く日か?」
興味津々に勝五郎が聞いた。
「そうなんだ。殿に呼ばれた」
爽やかな笑顔で答えた小太郎が、総治郎は気になった。
「それにしてもやけに嬉しそうだな。なにかあるのか?」
小太郎は二人に向かって言った。
少し、間を置いた後、力強く宣言した。
「決めたんだ! 今日言ってくる」
「は? 何を?」
勝五郎はわけがわからず、きょとんとしていた。
「そうか! 小太郎、武運を祈る!」
総治郎は小太郎に景気づけをした。
小太郎は若干不真面目な勝五郎には相談せず、総治郎にあの事を相談していた。
「ありがとう!」
一人取り残された勝五郎は首をかしげていた。
「……どういう意味だ?」
そんな彼の隣で、小太郎の後ろ姿を見送っていた総治郎が言った。
「よし。絶対に上手くいく。帰って着たら祝盃だ! な?」
勝五郎は未だ疑問を抱えていたが、それを押しのけ浮かれ始めた。
「何かわからんが、まぁいい。どうせなら芸妓呼んでパーっと……」
すると総治郎は勝五郎を叩いた。
「お前、いいかげんに真面目になれ! だから見合いが一個も来ないんだぞ」
城へ着き、案内された所へ向かうと、声がかけられた。
「小太郎ちゃん。こっちよ」
ちゃん付けで呼ばれ、イラッとした小太郎はその者の姿を確認しようと振り向いた。
その者の姿を彼の眼が捕えたとたん、驚きのあまり怒るのを忘れていた。
「姉上? なぜここに?」
「奥方さまからご招待があったの。旦那さまと子どもたちも一緒にって」
「え? 皆いるんですか?」
「えぇ。あの子たちは今、若君たちと遊んでるわ」
そう言われてみると、遠くで子どもたちが仲良く遊んでいた。
「元気が良いですね」
「えぇ。歳が近いから、楽しいみたい」
キャッキャ騒いで楽しそうな子どもたちの姿に、小太郎も参加したくなった。
子どもたちの相手は忍耐と体力が必要だが、彼は大好きだった。
「姉上、私も……」
しかし、良い終わらないうちに、姉に止められた。
「お仕事終わってからね。はい。これ」
彼女から言伝の紙を手渡された小太郎は大人しく従った。
仕事ならば、仕方がなかった。
「これに書いてあることをすればいいんですね?」
そう確認を取ると絢女は小太郎を送りだした。
「えぇ。頑張ってね。良鷹さん」
その言葉に、小太郎は少し不満を感じた。
「なんか、都合がいい時だけ『良鷹さん』な気がしてきた……」
「何か言った?」
「いいえ。行って参ります!」
大人しく小太郎はその場を後にした。
すると入れ替わりで、真菜を引きつれた蛍子が現れた。
「……上手くいったか?」
仕事は蛍子の策略だった。
「はい。奥方さまのご指示通り」
報告に満足した蛍子は、絢女を誘った。
「そうか。あとは二人に任せ、我々は庭で花見でもしながら結果を待とう」
「はい」
仕事を任された小太郎は紙の指示通りの場所へやって来た。
そこには思いがけない人が居た。
「良鷹さま? どうしてこちらに?」
「あ、彰子殿。貴女こそどうして?」
「奥方さまから、茶会で使う花を採って来いとのお指図が……」
「そうですか。私は殿から同じことが……」
「殿の御所望は?」
「水仙です。奥方様は?」
「殿と同じでございます……」
「では、一緒に探しましょうか?」
「はい」
二人は庭を歩き、水仙を探した。
しかし、一向に見つからなかった。
それもそのはず。蛍子が庭に無い花を指示していた。
全く見つからず時が過ぎて行く間、二人はずっと話していた。
何時しか会話に夢中になり、花を探すことを忘れていた。
「そういえば……。仕事、終わってませんね」
「あっ。そうでした。どうしましょう? 水仙はございませんでしたと申し上げるよりほかは……」
「ですね。代わりに、白い花でも摘んでいきましょう」
それからしばらく歩いていた二人はいつしか庭の奥、木が茂った静かな場所に来ていた。
「これもお庭だなんてすごいなぁ。いろんなものが集まってる」
小太郎は初めて足を踏み入れた城の庭に驚いていた。
それは彰子も同様だった。
「そうでございますね。お庭の中に、池も川も山も……あれは、滝という物でございますか?」
少し離れた所に小さな滝があった。
しかし、小太郎はその滝よりも、彰子の質問が気にかかった。
そしてそっと彼女に聞いた。
「……滝、ご覧になったことは?」
「いえ。本物は……。京のお庭にも、藩邸のお庭にもございませんでしたので……」
意外な事実に、小太郎は良いことを思いついた。
「では今度もっと大きいのを見に行きましょう。あれよりもずっときれいですよ」
「はい。……あ、良鷹さま。花があそこに」
彰子は、滝の傍に小さな白い花を見つけていた。
「ほんとだ。あれを持って帰りましょうか」
「では、わたくしが取って参ります」
「……あ、待って!」
小走りで滝に向かった彰子を小太郎は追った。
地面が濡れていては危ない。
しかも、滝のまわりは岩が多く、足場が悪かった。
そんな場所に一人で行かせるわけにはいかなかった。
追いついた時、彼女は白い花に手を伸ばしていた。
「気を付けて」
「良鷹さま。取れました。ほら。……あっ」
花を摘み、立ち上がろうとした瞬間、濡れていた地面に足を滑らせ、彼女はよろけた。
下は岩。落ちたら怪我は免れない。