われてもすえに…
【最終話】 未来
「若。旦那様がお呼びです」
帰宅早々馬の世話をしていた小太郎に、下男の吉右衛門がそう告げた。
小太郎は馬の汗を拭いてやりながら彼に返した。
「ちょっと待って。すぐ終わらせるから。……父上はお怒りか?」
「いえ」
心配そうにそう言う下男を見た小太郎は呟いた。
「とにかく、お急ぎを」
小太郎は急いで厩を出た後、身形を整えると居間へ向かった。
そこには父が居た。
少し離れた場所に腰を下ろし、小太郎は父に声をかけた。
「お呼びですか?」
良武は酒の支度をしていた。
「あぁ。一緒に一杯どうだ? ……昨日の今日できついか?」
「いえ。少しならば……」
小太郎は父の誘いに乗り、酒杯を受けることにした。
父は息子と酒宴を楽しみ、酒が進むと彼はしみじみと言った。
「……お前ももう十八か」
「なんですか? いきなり?」
すると、少し真剣な眼差しになった良武は低く言った。
「……母上から聞いた。女の子を連れてきたそうだな?」
小太郎はこの言葉にドキッとした。
何を言われるのかと、彼は身構えた。
「……はい。それが?」
おそるおそる口にした。
しかし、父の口調は穏やかなまま変わらなかった。
「……どこの娘だ?」
この問いに正直に答えた。
「……彰子殿です」
「……あきこ? ……どこの家だ?」
「奥方様の侍女をやってらっしゃる……」
ここまで言うと、彼は彼女を把握した。
「あぁ。彰子殿か。この前城で会ったな」
彼は突然小太郎にニヤニヤしながら一言言った。
「ウソみたいに綺麗になったよな?」
「……え? ……はい」
色々言いたくなったが、小太郎は黙った。
すると、父から質問が投げかけられた。
「……で、今日は彼女と何したんだ?」
「遠乗りで、丘の上まで……」
「そうか。楽しかったか?」
「……はい」
やましいことは何もなかったので、小太郎は父に端的にそう言った。
少し二人の間に静かな時が流れたのち、にこやかだった良武は突然真顔になった。
「……さて、お前の意向を聞かねばならん」
「……何の意向ですか?」
「彰子殿を嫁にするか否かだ」
この言葉に小太郎は驚いた。
「え!?」
「なんでそんなに驚く?」
意外だと言わんばかりの顔でそう言った父に小太郎は動揺しながらも言葉を返した。
「その……あの……あまりにも急すぎませんか?」
やっと自分の気持ちに気付き、やっと彰子を女として愛しいと気付いた小太郎には早すぎる展開だった。
しかし、良武は引かなかった。
「理由はちゃんとある。年が明け、若君が藩主になられた折、正式にお前を傍に置きたいらしい」
「……そうなのですか?」
「あぁ。だから早く身を固めんといかん。喜一朗もお前の歳に絢女と夫婦になった。早くはない」
押し切られそうな勢いに、小太郎は踏ん張った。
「……待って下さい。いきなりすぎて、返事のしようが有りません。心の準備が必要です」
すると、父も気付いたのか譲歩策を提示した。
「……そうだな。あと一月待ってやる。決めろよ」
「……はい。はぁ……」
がっくりとうなだれる小太郎を見た良武は笑い始めた。
「まぁ、そう深刻に考えるな。……そうだな。参考までに、俺の初音との馴初めを話してやろうか」
酒が回った彼は、息子に昔話をすることに決めた。
この言葉を聞いた小太郎は元気を取り戻した。
聞き出そうにも聞けない両親の馴初め。興味津々で身を乗り出した。
「教えてくれるのですか?」
「あぁ。良い機会だからな。……だがな、俺が話したって言うんじゃないぞ」
「はい」
夜遅くまで父子の語らいは続いた。
若いころの両親の話しを面白おかしく聞いた小太郎は、少し心が晴れていた。
自室に戻る途中、ふと思い立ち庭に面する縁側に腰掛けた。
酔って火照った身体を冷やしながら、小太郎は呟いた。
「嫁か……」
そしてふと考えた。
彰子と夫婦になったら……。
今のようにいつ会えるかわからない、ということが無くなる。
毎日一緒に過ごせる。
「そうか。文通しなくても、毎日おしゃべりできるんだ」
最後に子どもの彰子と別れた時、文通しようと約束をした。
あの時からずっと今でも続く文のやり取り。
楽しいが故に、ここまで長く続いた。
その時、ふと彰子から渡された文を思い出した。
「あ、読んでなかった」
懐から取り出すと、その文の差出人は主、政信。
先ほど父から聞いた『出仕』の事かと思い、少し緊張しながら封を切った。
しかし、中身は違った。
違うことで彼は驚いた。
「え」
小太郎は思わず声に出していた。
『……来月帰る予定だった蛍子が、半月早く江戸へ帰る事になった。そこで、今月末に茶会を開く。お前に話しがある。必ず出席するように。』
この文面に、小太郎は寂しさを覚えた。
「帰るんだ……。殿も、義兄も。彰子殿も……」
今度こそ、二度と彰子に会えないかもしれない。
江戸の藩邸の奥深く、男が立ち入れない場所に戻る彼女。
そう思うと、父の言った『嫁』という言葉が心に浮かんだ。
そして思った。
自分の物にしてしまえば、一生傍に居る。
しかし、小さな不安が心に残った。
「でも……」
主の文を手に、うつうつ考えていると、もう一通の文が目にとまった。
大層美しい文字。その差出人を見ると、蛍子だった。
「……奥方様?」
急いでその文を読み進めた。
『……彰子を幸せにして欲しい。妾は止めはしない。むしろ、あれほどまでに惚れさせておきながら、嫁に取らず、屋敷の奥深くで枯らせでもしたら、妾は女としてお前を許さない。』
美しい文字と同じように美しい主の妻の顔がフッと浮かんだ。
子どものとき、彰子に連れられこっそり見た蛍子は、決して笑みを浮かべない人形のような姿だった。
その思い出と、少し強気な文面に背筋がスッと寒くなった。
「でもな……」
なにかがいまだに小太郎の中で引っ掛かっていた。
それが何かはっきりとは分からなかった。
「……何を迷っておる?」
突然彼に声がかけられた。
振り向くとその声の主は彼の背後に立っていた。
老人の姿をした神だった。
「……あ、お久しぶりです。今日は夢の中じゃないんですね」
「お前が寝るまで待てん」
夜遅くまで起きていたことが不満だったらしい神に、小太郎は謝った。
「すみません……。ところで、話とは?」
神は小太郎の前に座ると、こう聞いた。
「なぜ彰子を嫁に決めない?」
父と同じ話題を出した神に、小太郎は驚いた。
「そう言われましても……」
はっきりしない小太郎に、神は言った。
「彰子の仕事が心配か?」
その言葉に小太郎ははっとした。
「……そういえば。彼女は仕事が好きです。それを奪うのは……」
親から離れてまでも蛍子に付添い、遥か京から江戸へ来た。
それからずっと蛍子に付添い、侍女をやってきた。
そんな彼女を嫁にし、家の中に留めるのは如何なものかと、不安になり始めた。
小太郎に、神はこう言った。