われてもすえに…
「……どこの家の娘さんかしら。今からお逢いできるかしら?」
「今客間に行けば、もしや……」
しかし、時すでに遅し。
馬のいななきと、走り去る音が聞こえた。
「どうやら、若とお出かけになったようですな……」
小太郎と彰子は、馬を走らせある場所に来ていた。
そこは、丘の上。
眼下に城下町が一望できる穏やかな場所だった。
騎乗で、小太郎は前に座っている彰子に言った。
「どうです? 綺麗でしょう?」
そこは小太郎が一番好きな場所だった。
大切な人を連れてくるのなら、ここだと考えた末のことだった。
しかし、ハッと気付いた。
「あ……。京から江戸に来るとき、これよりずっと綺麗な景色いっぱい有りましたよね?」
「あまり覚えてはおりません。ずっと暗くて狭い駕籠の中でしたから」
少しイヤそうに言った彰子を笑い、小太郎は少し安心した。
「そうですか……。そうだ! ずっと馬では辛いでしょう? 降りましょう」
小太郎は先にひらりと馬から降りると、彰子に手を差し伸べた。
「さぁ。どうぞ」
彰子は少し顔を赤らめたが、すぐ小太郎に手を任せた。
「ありがとうございます」
馬を下りた後、二人は草の上に腰かけ、景色を眺めながらおしゃべりに興じた。
江戸の藩邸で仲良く遊んだ、子どもの時と同じような楽しい時が流れて行った。
しかし、全く同じということもなかった。
日が暮れ始めた頃、知らないうちに二人は見詰め合っていた。
なにも言わず、互いの眼を見ていた。互いの右手と左手がそっと重なっていた。
しばらくそのままだったが、カラスが遠くで一声鳴いた。
はっと我に返った二人の顔は赤くなっていたが、夕陽で照らされはっきりとはわからなかった。
小太郎は完全に日が落ちる前に、彰子を城まで送って行った。
真っ赤に焼けた夕焼けの中、城の門の前に立つ彰子に馬の背から言った。
「彰子殿。またお会いできる日を楽しみにして居ります……」
「はい。良鷹さま。わたくしも」
「では……」
「さようなら……」
彰子は小太郎の姿が小さくなると、城の奥へ戻りすぐに自室に駆け込んだ。
胸は高鳴り、思い出し笑いで顔がニヤケた。
「良鷹さまが、わたくしを……」
彰子は心底驚いていた。
深く優しい声で『彰子殿』と呼ぶ。『彰子ちゃん』ではなくなった。
自分に対する話し方が、大人に対する物に変わっていた。
大人として見てくれている。
そのことが嬉しかった。さらに、彼にじっと見詰められたことが堪らなかった。
「良鷹さま……」
自分を女として見てくれているのではと思い、幸せいっぱいの彰子は浮かれていた。
自分を呼ぶ声が聞こえていなかった。
「……彰子? 彰子!」
「はい? なんですか良鷹さま?」
発した言葉がそれだった。
眼の前に立つ人物を見た彼女は、恥ずかしさで真っ赤になっていた。
「……彰子。わたしは貴女の好い人ではありません」
少しあきれた様子で、真菜がそう言った。
「申し訳ございません!」
お叱りの言葉が待っていると思った彰子だったが、返ってきたのは優しい言葉だった。
「本当に楽しかったようね」
「いえ……」
しかし、彼女は仕事に関してはしっかりと締めていた。
「それより、今日は貴女が宿直のお役目です」
「……宿直ですか?」
彰子は宿直が苦手になっていた。
十二になるまでは免除されていたが、真菜の一存で仕事が復活した。
男女の事を彼女から教わって臨んだ彰子だったが、仲が良い二人の主。
彰子には刺激が強かった。
落ち着かない様子の彼女だったが、真菜は甘やかしはしなかった。
「心して臨むように。奥方さまからの名指しですよ」
「……はい」
覚悟を決めて寝所に行った彰子だったが、部屋には蛍子一人だけ。
彼女は御簾を上げ、彰子を呼んだ。
「ここへ来なさい」
「あの……。殿は?」
妙な雰囲気に不安になった彰子はそう聞いた。
すると蛍子は少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
「妾は今晩、そなたと過ごす。藤次郎は拗ねておったが、放っておけばよい」
事実、政信は若干拗ねていた。
『彰子と良鷹のため』ということで了解してはいた。
しかし一人寝はイヤだと城を脱出し、喜一朗の家に飲みに行っていた。
「わたくしに、なに用ですか?」
「一緒に寝たいのじゃ。昔のように」
蛍子にそう言われ、彰子は昔を思い出し嬉しくなった。
「よろしいのですか?」
「もちろん。それ故、打ち掛けは要らぬ」
彰子は主に従い、寝間着姿で出なおした。
蛍子の隣の布団へ入り、しばらく昔話に花を咲かせた。
夜も更けた頃、蛍子はかねてから話そうと思っていたことを切り出した。
「彰子。良鷹の妻になるか?」
突如こう言われた彰子は、驚き言葉が出なかった。
すると、蛍子が続けた。
「……隠す必要は無い。そなたがあの男を好きなのはとうの昔にわかっておる」
「しかし……」
「しかし、なんじゃ?」
蛍子は侍女に問い詰めた。
「わたくしは、奥方さまに仕える身。色恋沙汰は……」
口ごもった彰子をじっと見て、蛍子は低く言った。
好きな気持ちを抑えているのが眼に見えていた。
「生涯を屋敷の奥で、妾に捧げる気か?」
「……はい」
その日の彼女の行動を蛍子はすべて把握していた。
藤次郎から借りた『影』を使い、二人を見守らせ、一部始終を報告させていた。
恋を諦めようとする侍女を蛍子は止めた。
「それは許さぬ」
「どうしてでございます? わたしは……」
「そなたが一生を捧げるのは良鷹じゃ。妾には真菜が居る」
長年苦楽を共にしてきた侍女に幸せになってもらいたい彼女は、どうにかして頑固な彰子を動かそうと語気を強めてそう言った。
真菜は生涯を蛍子に捧げると誓い、もうなにをやっても動きはしなかった。
「しかし……」
頑固な彰子は再びその言葉を口にした。
「彰子。『しかし』が多い」
「申し訳ございません」
縮こまってしまった彰子を丸めこみにかかった。
「彰子。藤次郎も妾も真菜もそなたが良鷹の妻になることに賛成じゃ。誰も止めはしない」
「しか……。そうでございますか?」
止められた言葉が出かかった彰子はそれを飲み込み、言葉を変えた。
嬉しい言葉だったが、問題が残っていた。
蛍子はそれを良くわかっていた。
「良鷹は今日の段階ではどうにかなりそうなのであろ? 問題は瀬川家じゃ」
「え? 奥方さま?」
彰子は主の言葉に引っかかり、彼女に声をかけた。
しかし、蛍子は全く悪びれず美しい顔に笑みを浮かべてこう言った。
「……さて。今日の良鷹との逢引を詳しく聞かせてくれぬか?」
彰子は激しくうろたえた。
興奮冷めやらぬ彼女は、赤くなり、布団の中に隠れてしまった。
「ご容赦を……」
「ダメじゃ。寝てはならぬ」
その晩、彰子は『宿直』本来の仕事同然、一睡もできなかった。