われてもすえに…
さすがの小太郎も、その女を綺麗だとは思ったが、彼の心は動かされなかった。
しかし、眼の前の彰子は小太郎の心を動かした。
自信と誇り、知性が垣間見える眼。奢らず、歩をわきまえた落ち着いた仕草。
そんな彰子に不思議な感覚を覚えながらも、小太郎はなにも言わずにじっと眺めていた。
すると、彰子は恥ずかしそうに眼を伏せた。
小太郎はそこで自分の変化に気付いた。
彰子から目が離せなくなっていた。
酔いはじめて熱くなった顔は急激に熱くなり、鼓動は激しくなっていた。
そんな彼を政信は喜一朗と傍観していた。
政信は炙ったするめをかじりながら言った。
「顔、真っ赤だな。……まぁ、飲め」
酒を喜一朗に注ごうとした。
「……もう飲みません。そうとう驚いてるんでしょうね」
喜一朗は笑顔で主からの酒を拒んだ。
「……まだ全然飲んでないだろうが。さて、喜一朗、小太郎は男になれると思うか?」
政信は怯まずに小姓に酒を注いだ。
喜一朗は溜息をついた。
「さぁ、どうでしょう? ……殿、もうそろそろ飲みすぎな気がするのですが」
「先輩が指南してやれ。……まだ飲むぞ」
なにも言わない小太郎の代わりに、彰子が言った。
「お久しぶりです。良鷹さま……」
その声は既に女の物。
高く可愛い子どもの声ではなかった。
雛人形のような身形はどこへやら。今の彰子は打ち掛けを纏い、黒髪を結い上げ、上品な化粧を施していた。彼女が動くと、フッとよい香りが小太郎の鼻に届いた。
「ひ、久しぶ、り」
恥ずかしさやら、戸惑いやら、酔いやらで小太郎は上手く会話ができなかった。
しかし、彰子は一向に気にしてはいなかった。
「お手紙、ありがとうございます。毎回楽しみにしております」
「そ、そう?」
「毎回入れてくださる綺麗な紅葉も、押し花も、お菓子も本当に素敵で……」
「ど、どういたしまして……」
二人の様子を見た政信はくすくす笑い始めた。
「……あいつ、まだあんなガキっぽい贈り物してるのか?」
「そうみたいですね。男は遅いですから……。女に気付くのが」
喜一朗はフッと笑い、肴に手を伸ばした。
「彰子なんか、八つのころすでにあいつを意識してたぞ」
すかさず、政信は喜一朗の空いた杯に酒を注いだ。
「女は早いんですよ。殿の姫様もわかりませんよ……」
酒をどうにか飲ませようとする主にムッとなった喜一朗は少し意地悪く言った。
すると、政信は不機嫌そうに言った。
「俺の認めた男にしか嫁がせん!」
男二人の会話は、父親の物になりつつあった。
「あの、彰子ちゃんは、ずっとここに?」
少し会話がまともにできるようになった小太郎は彰子にそう聞いた。
「いいえ。奥方さまが来月江戸へ戻ります。その時わたくしも」
「そう……」
「しかし、それまでは、わたくし、ここに居ます……」
小さな声で恥ずかしそうに言った彰子に、小太郎はこう言った。
「……お仕事の合間に、良い景色でも見ていくと良いよ。結構、綺麗なところあるから」
先輩二人は小太郎の失敗に気付いた。
酒を飲むのはやめ、額を寄せて相談し始めた。
「……あのバカ! 彰子がどんな気持ちで言ったかわかってないぞ」
「……少しは意識したと思ったのに。殿、どうしますか?」
「……仕方ない。俺らで小太郎ちゃんを良鷹さまにするしなかいな。どうだ?」
「……わかりました。早速手はずを」
しかし、小太郎は全く彰子を意識しなかったわけではなかった。
衝撃の再会のせいで、動転し、どう彼女に対して振舞って良いかわからなかっただけだった。
飲み会を終え、一人小太郎は寝転がってその日の出来事を思い返していた。
主との再会、緊張した茶会。そして彰子。
小太郎の中の彼女はずっと八つの出会った時の彰子のままだった。
それ故、彰子の変身に驚き、動揺し、未だにあの美女が彰子だと信じられなかった。
「彰子ちゃん……」
そう口にしても、浮かぶのは八つの彰子だった。
しかし、小太郎はあることをふっと思った。
「二度と会えない……のかな?」
それは以前喜一朗に聞いたことだった。
この時、小太郎はやっと本当の意味を理解していた。
彰子は近いうちに、江戸の藩邸の奥深いあの場所に帰る。
殿様以外入れはしない男子禁制の場所。
「俺は、もう子どもじゃない。あの場所には、行けない……」
そしてある不安に駆られた。
文のやり取りを禁止されるかもしれない。
「どうなるんだろ……」
不安と、妙なモヤモヤとした気分とで、彼はその晩なかなか寝付けなかった。
そんな彼の心配とは裏腹に、次の日彰子から小太郎宛に文が来た。
早速開けて読むと、中には、『会えてうれしかった、またいつか会いたい、これからも文のやり取りをしたい』と書き連ねてあった。
そしてその文は良い匂いがした。
それは彼女が着物に焚き締めていたものと同じ、上品な優しい香り。
「彰子、殿……」
その日、小太郎の頭から今までの子どもの彰子の姿は消えた。
彼女は八つの人形のような姿ではなく、武家姿でほほ笑む美しい女の姿だった。
その晩、城の一角で喜一朗は男と話していた。
そして傍には、若い女の姿が。
「……どうだった?」
「はっ。喜一朗様が躍起になる必要は無いと存じます」
喜一朗は影を使い、小太郎の動向を探っていたのだった。
「……どういうことだ?」
「良鷹様は以前から彰子様を好いていらっしゃいました。それ故、急がず、慌てず、少し待てば、必ずや彰子様に色よい結果が返ってくることかと……。では」
そう言うと影は音もなく消えた。
残されたのは喜一朗と女、彰子だった。
「……ということですが。待てますか?」
「待つも何も、わたくしは……」
喜一朗は政信と結託し、小太郎と彰子をくっつけようとしていた。
大本の提案者は政信。
『出会ったときからずっと小太郎への想いを変えてない一途な彰子に感心した。』
と言うのが大義名分だったが、他にもいろいろと理由があった。
・一番初めにできた友達、小太郎への礼。
・妻、蛍子と引き合わせてくれた彰子への礼。
・子どものなかよしこよしから、男女の恋愛へどう変化するかの観察。
・難しい条件下での愛の成就。
しかし、政信は直接的に両者に働きかけろとは一切命じてはなかった。
彼がやったのは、茶会の席で小太郎に茶を運ぶのを提案した事と、その晩の飲み会に誘ったぐらい。
この晩の行動は、クソ真面目の喜一朗が考えたもの。
本当にクソ真面目な彼は、余計な心遣いのしすぎだった。
「彰子殿、私も陰ながら応援致します。なにもなければ愚弟をけし掛けますので。ご心配なく」