われてもすえに…
『堅い』『つまらん』『おもしろくない』
その言葉が、怖かった。
皆に言われるその事が本当に当てはまるのなら、自分は主には不必要な人間になる。
政信が好きだったのは八年前の『良鷹』。今の『良鷹』ではない。
主を失望させたくないと、小太郎は余計に学問と武術に打ち込むようになっていた。
そのせいで、遊びをほとんどしなくなっていた。そして心のゆとりを無くしていた。
上に上に、もっと強く、もっとしっかり、と必死になるあまりに、本来の彼から遠ざりつつあった。
それに気付かない小太郎は、日に日にど壺にはまりつつあった。
「……ただいま戻りました」
出迎えは母の初音だった。
彼女は小太郎の腰の物を受け取り、部屋へ運んだ。
そしてそれを部屋の隅に安置すると、懐から文を取りだした。
「江戸から文が来てますよ」
この言葉に、暗くどんよりとしていた彼の心が明るくなった。
「殿かな? それとも義兄上か? おっ。彰子ちゃんだ」
それは彰子へ一月前に送った文の返事だった。
嬉しそうに宛名を見詰める小太郎を眺め初音は笑った。
「その子と文通、長いわね。何年になるかしら?」
「もうじき八年です」
「そういえばもうそんなに経つわね。そういえば今の貴方、あの時にそっくり」
クスッと笑い、初音は息子の着替えを手伝いはじめた。
そんな母に、小太郎は言った。
「当たり前ですよ。本人ですから」
初音は彼から袴を受け取ると、面白そうに言った。
「中身はぜんぜん違いますけどね」
その言葉に、小太郎はぎくりとした。
「……どういうことです?」
「あの時は中身が子供だったでしょう? 姉上が恋しくてわんわん泣いてたじゃない」
小太郎は顔が赤くなった。
「恋しくて泣いてはいません!」
「冗談ですよ。落ちつきが出て来たって言いたいの。大人になってきたって言うこと」
「はぁ……。そうですか……」
微妙な母の言葉に、小太郎は再び少し落ち込んだ。
彼女にとって小太郎はいつまでたっても子どもだった。
「あ、いけない。絢女に白湯を頼まれてたわ」
袴をたたみ終えた初音は突然声を上げた。
そんな母を見た小太郎はすぐさま言った。
「私が行きます」
「そう? ではお願いね」
小太郎は台所で下女から白湯と小さなお菓子の入った皿を受け取ると、姉の部屋へ向かった。
静かな部屋で、絢女は眠っていた。
「……姉上?」
そっと声をかけると、彼女の眼が開いた。
「……良鷹さん?」
「はい。ただいま戻りました。……おかげんは?」
少し心配そうに小太郎が聞くと、絢女は笑って身体を起こした。
「眠ってたみたいね。なんともないわ」
「そうですか……。白湯を持ってきましたが、召し上がりますか?」
「えぇ。ありがとう」
絢女は小太郎から茶碗を受け取り、白湯を口に含んだ。
ホッと一息つくと、小太郎に言った。
「今日も早いわね。お友達と遊ばないの?」
「……まあ。その気分ではなかったので」
小太郎は先ほどの喧嘩を思い出し、胸が痛くなった。
そんな少し暗い顔を見た絢女は明るく彼に言った。
「じゃあ、あの子たちと遊んでくれるかしら?」
「わかりました。どこに居ます?」
絢女は廊下に座っていた下女に声をかけた。
「あなた、呼んできてくれる?」
「はい、ただいま」
しばらくすると、下女に手を引かれて女の子が二人やってきた。
五歳になる双子の姉妹、小太郎の姪だった。
彼女たちは部屋に入るなり小太郎の姿を見つけ、喜んだ。
「あ、おじちゃん!」
「おじちゃんおかえりなさい!」
小太郎はこの二人が好きだったがどうしても一つ不満があった。
それは、呼び方だった。
二人にお菓子を与え、仲良く食べる様子を眺めながら言った。
「前から言ってますがやっぱり『おじちゃん』は止めてください……」
「だったらなんて呼ばせればいいの?」
「お兄ちゃん……」
しかし、すぐに却下された。
「ダメよ。そのうち叔父上に変えるからいいでしょ?」
「そっちもイヤなんだけど……。まだ十七なのに。はぁ……」
うなだれていると、姉の美緒が小太郎の膝の上に座って言った。
「おじちゃん、今日ね、わたし赤ちゃん抱っこしたの」
「へぇ。どうだった?」
すると、もう片方の膝に座って小太郎の指を握っていた妹の美波が答えた。
「ちっちゃかった。でも、かわいかった」
「へぇ。おに……おじちゃんも抱っこしたいな」
絢女は出産のために実家に戻っていた。
そして二日前に長男を生んだばかりだった。
「母上、おじちゃんに抱っこさせてあげて。いいでしょ?」
「いいでしょ?」
姉妹の懇願に乗じて小太郎も頼んだ。
いまだ、甥っ子の姿を見てはいなかった。
「姉上。おねがいします」
「良いわよ。おじちゃんに抱っこしてもらいましょう」
「またおじちゃんか……」
下女に抱かれて、生まれて間もない甥が小太郎の元にやってきた。
彼女から赤ん坊を受け取ると、小太郎はじっと彼の顔を覗き込んだ。
「義兄上に鼻のあたりがよく似てる。眼は、姉上かな? 名前はどうするんです?」
そう聞くと、絢女はとんでもないことを口走った。
「小太郎が良いの。だから、貴方早く改名して」
「は!? いきなりなんですか!?」
小太郎の素っ頓狂な声に腕の中の彼の甥っ子は泣き始めてしまった。
「大きな声出さないの。泣いちゃったじゃない」
「すみません……」
どうにか泣き止ませようと試行錯誤していると小太郎は姪っ子二人に囲まれた。
「おじちゃん、泣いちゃたよ。どうするの?」
「こちょこちょってやれば泣き止むんじゃない? おじちゃん上手いでしょ?」
「どうしよう……。うぅん……」
弟の戸惑う姿を笑った絢女は娘二人に優しく言った。
「美緒、美波、それでは泣き止みませんよ」
「どうするのですか? 母上」
「そうね、母上にかしなさい。良鷹さん」
小太郎は大泣きする甥っ子を母親に返した。
するとすぐに彼は泣き止んで眠りについた。
「あ、泣きやんだ!」
「すごい! 母上」」
姉妹は母の腕に驚いていた。
絢女は満足げに息子の寝顔を見た後、娘たちに言った。
「さぁ、二人とも母上は叔父上とお話があります。あっちの部屋で待ってなさい」
姉妹は素直にその言葉に従った。
「はい。美波、行こう」
「はい、姉上。おじちゃん、また後でね」
手を振る美波に小太郎も手を振った。
「またね」
姉妹を見送ると、小太郎は絢女に言った。
「姉上、本当に小太郎にするつもりですか?」
「冗談よ。でもね、貴方その形で小太郎はちょっと……」
心外な言葉に、小太郎は不満を漏らした。
十七年間共にしてきた名に、文句をつけられることなど快いものではなかった。
「……その形ってなんですか?」
「もうずいぶん大きいもの。あの時からもうずぐ八年経つのね……。あんなにちっちゃかったのに」
「ちっちゃいって言わないでください」
嫌いな言葉に、小太郎は文句を言った。