われてもすえに…
「条件とは?」
「……顔を見せてくれ」
いとも簡単な条件を前に蛍子は覚悟を決めた。
どうしても、藤次郎に一目会いたかった。
「……え?」
蛍子は眼の前の夫『政信』の顔に、茫然としていた。
それは紛れもなく会いたい男だった。
一瞬、気の迷い、目の錯覚かと思い、眼を閉じて顔を伏せた。
呼吸を整えた後、再び男の顔を見た。
顔は変わってはいなかった。
その顔を蛍子はじっと見つめたまま黙りこくってしまった。
「……どうした?」
固まってしまった蛍子に、政信は不安を感じた。
蛍子は呟いた。
「……藤次郎?」
「……あぁ。磐城藤次郎政信だ」
「……藤次郎政信?」
「姫さんのところに会いに行ってたのは、俺だ。双子の弟でも兄さんでもない」
「……本当に、藤次郎?」
「そうだ。今日は侵入はしてない。表の俺の部屋からちゃんと歩いて来た。……え?」
政信は蛍子の顔を見て驚いた。
突然、彼女の眼から涙があふれ、頬に涙が伝っていた。
「ちょっと、なんで泣くんだ!? 俺、変なこと言ったか?」
すると蛍子は顔を伏せた。
「……藤次郎は嘘つきじゃ」
「は?」
「……いつか必ずと言った。なぜ今日の今日まで来なかった?」
そう蛍子が恨み事を言うと、政信は言葉を濁した。
「だって……。俺のこと……」
「そうじゃ。得体のしれぬ『政信』がずっと怖かった。怖くて怖くて眠れなんだ」
「ごめん……。でも、俺も怖かったんだ。嫌われるのが怖くて、今日までここに来られなかった」
しばらく黙っていた二人だった。
そのうち蛍子の涙は収まった。
彼女は寝間着の袖で涙をぬぐうと政信に向かって言った。
「妾は、そなたが嫌いではない」
その言葉に、少し不安が解消された政信は彼女に聞いた。
「……じゃあ、俺が怖いのはどうだ?」
「もう怖くは無い」
そう言われた政信は安心した。
そして、蛍子に自分の想いを伝えようとした。
「姫さん、あのさ……」
「姫はイヤじゃ」
そう言われ、政信は出端を挫かれた。
しかし、思いがけない言葉が返ってきた。
「……名を、妾を名で呼んで欲しい」
以前『蛍子さん』と名を呼んだら、『たやすく呼ぶでない。』と拒否された。
それ以来ずっと呼ぶ時は『姫さん』だった。
名を呼ぶことを許された政信は、嬉しさでいっぱいだったが緊張し始めた。
「……いいのか? ……じゃあ、蛍子」
「なんじゃ? 藤次郎」
「俺は、蛍子が好きだ」
「そうか」
「蛍子が嫌じゃなかったら、正室って名の形式じゃなくて、本当の意味で俺の妻になってほしい」
真面目に言う政信の言葉に蛍子の心が晴れた。
そして、目の前の夫に笑顔で返事をした。
「妾は藤次郎が好きじゃ。それ故、妾はそなたの妻になる」
蛍子はこの時、江戸に来て以来初めて笑った。
好きな男が目の前に現れた嬉しさ、恐怖から解放された安堵感を隠すことなく表に出した。
そんな彼女の満面の笑みを見た政信は笑い返した。
「やっと笑ってくれた。……笑った顔の方がずっといいぞ、蛍子」
二人はその晩、本当の夫婦になった。