われてもすえに…
【37】 安堵
祝言の席で蛍子は不安でいっぱいだった。
真っ白の豪華な白無垢を着ても、心は晴れなかった。
不安な表情を化粧と頭の綿帽子で隠し、始終ある男を探していた。
それは『藤次郎』だった。
蛍子は少しだけ期待をしていた。
藤次郎は政信の配下。それならば参列するはず。
『いつか必ず』と言った彼を信じたかった。
その一方で『おめでとう』などという言葉を聞きたくなかった。
そんな複雑な心持だったせいで、三々九度も、祝詞も全く覚えていなかった。
儀式が進み、諦めようとした矢先に蛍子は喜一朗の姿を見つけた。
彼は蛍子の横の『政信』と頻繁に眼で会話をしていた。
そんな彼の側を、蛍子はそっと気付かれない様に探した。
しかし、『藤次郎』を見つけることは出来なかった。
そして彼女は完全に諦めた。
求める彼は他の何処でもなく、自分の隣に座っている。
そのことに蛍子は全く気付いていなかった。
緊張と怖さで疲れが出始めた頃、祝言は終わった。
そして、いざ寝所へと言う時になった。
新たに付けられた多くの若い侍女が蛍子の心を推し量らずに言った。
「奥方さま、若君は大変立派な方、お幸せですね」
「お二人ともとてもお似合いですよ」
盛んにうれしそうに言う彼女たちに、蛍子は辟易とした。
本当に自分の気持ちをわかってくれる侍女は二人だけ。
その二人を呼んだが、現われたのは一人だった。
「彰子は?」
「……疲れが出まして、眠っております。申し訳ございません」
「そうか……」
実は彰子は寝てはいなかった。
余計な刺激を与えない様に、真菜が彰子をその日一日非番にしていた。
お子様にはわからない事が多すぎる祝言。その後の夫婦の生活も子供には理解が出来かねる。
そう考えた末の手だった。
「奥方さま、わたくしに何用でございますか?」
真菜は呼び方こそ変えたが、いつも道理穏やかに主に頭を下げた。
そんな彼女に蛍子は言った。
「……二人で話したい」
その意をすぐに受け、真菜は命じた。
彼女が一番位が上の侍女だった。
「皆、下がれ。後は私が」
二人きりになった部屋で、蛍子は真菜に不安な気持ちを再び漏らした。
蛍子は籠の中で大人しく座っていた猫のお藤を膝に乗せ、ゆっくり背中を撫でていた。
温かい毛並みに、ほんの少し心が癒されていた。
一方で、真菜はじれったさを感じていた。
『藤次郎は政信です。』そう一言言えば主の不安な気持ちは収まり、すべてがうまくいく。
それがかなわないもどかしさに、気付かれない様溜息をついた。
そしてその晩何度目かわからない説得をし始めた。
「奥方さま、怖いことなどありません。嫌なら嫌とはっきり言えばよいのです。男と言うのはすべてが鬼というわけではございません」
「しかし……」
その時突然、蛍子の膝の上のお藤がむくっと起き上がった。
部屋の外をじっと見詰めた後、にゃあと一声鳴いた。
するとどこからかそれにこたえるように猫の鳴き声がした。
そのとたん、お藤は蛍子の膝から飛び降り、御簾を潜り、障子をこじ開け部屋から駆けだした
普段から大人しく、そのような行動を取った事のないお藤を見た蛍子は焦った。
「お藤。どこへ行くのじゃ?」
立ち上がって追おうとした蛍子だったが、すぐさま真菜が止めた。
「わたくしが探して参ります」
その言葉に従い、蛍子は再び腰を下ろした。
お藤の籠の布団を綺麗にたたみ、寝心地良いように整えた。
その時、男の声が耳に入った。
ドキッとした彼女だったが、耳を澄ませた。
「お前も大きくなったな」
すると、それにこたえるように真菜の声がした。
「これは、若君。失礼いたしました」
平然とそう言う真菜に蛍子は驚いた。
しかし、耳を澄まし続けた。
「やっぱり二匹抱っこは重いな。……そうだな、今晩は妹と仲良く遊んでろ。……真菜一人で持てるか?」
「御心配には及びません。これ、そなた、お藤さまを頼む。わたくしはこちらの……」
「蛍だ」
「蛍さま。良い名ですね。では、若君、ごゆるりと……」
その言葉に真菜は凍りついた。
侍女が自分を置いて去っていく。愛猫は手元に返ってこない。
妹のような彰子も傍に居ない。
信頼するものすべてが遠ざかり、寝所にただ一人残され、身体に震えが起こり始めた。
それでも公家の誇りを持っている蛍子は、取り乱さず平常心を保とうと試みた。
足音が近づき、それが部屋の前で止まった。
ほんの少しの間の後、声が掛かった。
「……入っても良いか?」
「……はい」
蛍子は頭を下げ、夫となった男を待った。
伏せた彼女の眼に、大きな男の足が見えた。
遠すぎず、近すぎない位置にその足は止まった。
『政信』はそこに正座し、着物の皺を払った後、蛍子に向かって言った。
「……俺が、怖いか?」
少し不安そうな男の声が蛍子の耳に届いた。
意外な言葉だったが、蛍子は即答した。
「……いえ」
しかし、それで話は終わらなかった。
心配そうな口調で、再び声が掛かった。
「……正直に言ってくれ。身体が震えてる」
必死に震えを抑えようとしたのを見抜かれた蛍子は、無性に恥ずかしさを感じた。
そしてさらに頭を深く下げた。
「申し訳ございません」
「……謝らなくていい。俺もさっき怖くて震えたから」
穏やかに、少し笑いながら言う男の声に蛍子の不安は少し和らいだ。
すると、『政信』が言った。
「あのさ……。俺の方が年下だ、そんなに畏まって喋らないでくれないか?」
「しかし……」
「……難しかったら、今はいい。将来的にってことで」
「はい」
そこまで話したが、沈黙が続いた。
しかし、先ほどの少しの会話で、蛍子の身体の震えと恐怖心はかなり和らいでいた。
そのせいか、蛍子はずっと気になっていたことを『政信』に聞いていた。
「あの……」
「なんだ?」
「……貴方さまの配下の、藤次郎は何処に?」
そう聞くと、『政信』は驚いたように言った。
「……あれに何か用か?」
しかし蛍子は怯まず言った。
「……礼を一言、言いたいのです」
すると『政信』は少し気まずそうに言った。
「そうか。あいつは……今忙しい、代わりに俺が聞いておくが」
しかし、本人に会って一言言いたい蛍子は『はい』とは言わなかった。
「今でなくてよろしいのです。お暇なときに、面会できませんでしょうか?」
『政信』はその言葉に驚いたようだった。
「……そんなに、あいつに会いたいのか?」
蛍子は再び頭を深く下げた。
夫の前で他の男に会いたいなどと普通は言わない。
この場で異常な行動を取った自分を恥じ、後悔した。
「……貴方さまが不快に思われるのでししたら、お聞き捨てください」
すると不満げな声ではなく、逆に少しばかり嬉しそうな声が蛍子の耳に聞こえた。
「別に構わん……。そんなに会いたいなら、今すぐこの場で会わせてやれるが……」
「本当ですか?」
嬉しくなった蛍子だったが、夫に悟られぬよう感情を隠した。
そんな彼女に『政信』は言った。
「でもな、条件がある」