われてもすえに…
魔の手から抜け出した喜一朗はすぐさま畳に手をつき、頭を下げた。
「ご無礼いたしました!」
「まぁよい。藤次郎が迷惑かけたな」
挨拶が終わった後、藩主と若様は二人で庭に出た。
前を歩きながら、信行は息子に聞いた。
「ここの暮らしには慣れたか?」
「まずまずは」
信行はこそっと言った。
「……つまらんよな?」
「……はい。まったくもって」
すると藩主は藩主らしくない事を言い出した。
「まぁ、もう少し経ったらこっそり抜け出しても構わん。江戸の街くらいなら許す」
「良いのですか?」
意外な言葉に、政信は驚いた。
「あぁ。俺も若い時やったからな。……だが、国には戻るな。謀反の疑いが掛かる」
少し不真面目な藩主だったが、道理と自身の責務は弁えていた。
息子にもそこはしっかりと教えた。
「はい……」
政信はそのことを頭でわかってはいた。抜け出して国の小太郎に会いに行けない事にがっかりした。
しかし、八年後に彼の成長した姿、出会った時の彼以上の『瀬川良鷹』を見るために我慢した。
それくらいの了見はあった。
再びぶらぶらと庭を歩いていると、急に信行が政信に振り向いた。
「そうだ。こんなことを言いに来たのではない。お前の祝言だ」
「は、はぁ……」
小太郎の父、良武から侵入及び姫との接触が露見しているのではと緊張したが、無用だった。
信行は池の大きな鯉を覗き込んで言った。
「……大層美しく賢いお公家の姫だ。気に入ると思う。秋に祝言でどうだ?」
具体的な時期がとうとう話題に上がった。
政信は不安な気持ちを感じていたが、父に委ねることにした。
「……父上にお任せ致します」
「では決定だ。日程は追って連絡する。楽しみにしていろ」
藩主が去った後、政信も部屋に戻った。
喜一朗は彼に声をかけた。彼の眼には主の不安そうな様子が映っていた。
「殿、どうされたのです?」
「どうしよう……。秋に祝言だって……」
気弱に呟いた主に、喜一朗は言った。
「自信を持ってください。なんでも相談に乗りますので」
「……そうか?」
「はい。私は殿の傍にいつもいます」
政信は一回り大きくなった小姓に、不安な気持ちを打ち明けた。
月が代わり、祝言の日取りが正式に決定した。
周囲は支度で忙しくなり始めたが、政信は相変わらず暇で退屈だった。
しかも、唯一の話し相手、遊び相手の喜一朗は国に帰っていた。
寂しくなった彼は、小姓二人に文を書いた。
小太郎には近況報告と江戸の美味い菓子をくっつけ、政信には不安と不満を漏らした。
ついでに彼の妻、絢女にも初めて文を書き、夫の不在を詫びた。
さらさらと筆を動かしている所へ、浮船がやってきた。
彼女も政信に付添って江戸の藩邸に来て彼に仕えていた。
「若君、面会を求めている者が居るのですが」
「誰だ?」
「姫に仕える者でございます。いかがされますか?」
政信の脳裏に浮かんだのは彰子だった。
彼女に正体を知られるのが怖い彼は、侍女に聞いた。
「子供だったか?」
「いいえ。若いおなごですが」
その言葉に、政信は安心した。
正体を知らないものならば、会っても平気。そう考えた。
しかし、彰子より厄介な人物をすっかりと忘れていた。
「……会おう。ただし、お前は外してくれ」
政信は文にきりを付け、侍女を待たしてある部屋に向かった。
その部屋の上座に座ると頭を下げる女に向かって言った。
「すまん。待ったか?」
すると、女は深々と頭を下げたまま返した。
「いいえ。突然面会を申し出、誠に申し訳ありません」
ある人物の存在を完全に忘れている政信は、深く考えずこう聞いた。
「そなた、名は?」
「真菜にございます」
ここで初めて政信の記憶が甦った。
それがあまりに強烈だったので、思わず声に出してしまった。
「ゲッ」
しかし、離れた位置に頭を下げたまま座る彼女の耳にはその声が届いてはいなかった。
さらに、政信の事に気付いても居なかった。
政信は何を言うべきか考えていたが、なにも浮かばなかった。
さらにどういう行動を取るべきかわからず、黙りこくっていた。
そんな彼に気付いた真菜は、自分から用件を切り出すことに決めた。
「……不躾ながら、若君の配下、藤次郎殿はいらっしゃいますでしょうか?」
政信の鼓動は早くなった。
あの日、刀を抜きはらい自分を脅した彼女の姿が甦った。
怖い女。の印象が強い彼女が自分に何用なのか、不安になった。
「……あいつに用事か?」
「……はい」
「……どうしても会わないとダメなのか?」
「……はい」
真菜の声から、感情を読み取ることは出来なかった。
ますます怖くなった政信は、冗談半分で聞いた。
「まさか、あいつを殺す気じゃないだろうな?」
「……場合によっては刺し違えてでもお命を狙うかもしれません」
とんでもなく過激な言葉に、政信は逃げようと思った。
しかし、変な行動を起こして彼女に捕まるのが怖かった。
「……なぜ殺したい?」
「わたくしの仇、とでも思ってください。それ以上は言えません」
政信は感付いた。
『藤次郎』が蛍子に手を出したと勘違いをして、証拠隠滅のために自分を消しに来たのではないかということを。
しかし、彼は殺されたくはなかった。
正直に打ち明け、許しを請おうと決めた。
「……真菜さん。俺はここに居る。顔を上げてよく見ろ」
「それは一体……。え!?」
真菜は、政信の顔を見るなり盛大に驚いた。
そんな彼女に、政信は気丈に挨拶をした。
笑顔が大分引きつってはいたが。
「よう! 元気そうだな」
真菜はさっきまでの恐ろしい女とは打って変わって動揺し始めた。
「あの、その、貴方は……」
政信は会釈した。
「磐城藤次郎政信と申す。よしなに」
この名乗りを聞いた真菜は、確認を取るように聞いた。
「……字が、藤次郎さま?」
「あぁ」
真菜は動揺を抑えながら、政信に尚も質問を続けた。
「では……。あの時の……。あの、藤次郎は……」
「俺だ」
打ち明けた政信に向かい、真菜は深々と頭を下げた。
「知らぬとは申せ、無礼な振る舞い。お許しください」
「そんなに謝らなくていい。顔を上げてくれ。真菜さんはちゃんと仕事したんだ。なにも落ち度は無い」
少し会話をした後、落ち着いた真菜は政信に聞いた。
「……しかし、なぜ正体を偽って? 堂々と表からいらっしゃれば良い物を」
細かいことを知らない真菜は率直に思ったことを言った。
すると、政信は顔を若干伏せて言った。
「……姫さん、俺を怖がってるだろ? 最初から正式に名乗ったら、絶対に顔も見られなかったと思う」
「そうですか?」
そこで二人の間を静かな時が流れた。
真菜は主の危機が去ったことで安心し、すぐさま主に事の次第を報告して一息つこうと思っていた。
しかし、それは出来なくなった。
「なぁ、真菜さん」
そう口を開けた彼に、真菜は言った。