われてもすえに…
【36】 不安
真菜は一人部屋で困惑していた。
主の蛍子から思いがけない告白をされた晩から、どうしてよいかわからず毎日仕事を終えては頭を抱えていた。
夫が決まっているというのに、想う男が他に居るという衝撃的な事実。
さらに、その男に猫を貰い、名前にその男の名をつけた。
そして、蛍子は言った。
その男がどうしても忘れられず、会いたいと。
ここまでならば、真菜もそこまで悩む必要もなかった。
ほんの一時の気の迷い、それで済むと思った。
しかし、主が打ち明けた事実に不安な気持ちが沸き上がった。
主が会いたがる男は、最後に『いつかまた』と言い残して消えた。
夫に決定している『磐城政信』の家臣に心を奪われた。
こんな危険なことが他の女中に露見すれば、正室の地位が危うくなる。
自分はともかく、傍にいつもいる幼い彰子にも害が及ぶ。
男『藤次郎』と夫『磐城政信』。
二人は同一人物なので全く問題ない。
ということに気付いていない真菜は、主がうれしそうに猫の名を呼び、撫でる姿に毎度背筋が凍りつく思いをしていた。
そんな心労の真菜の元へ、彰子がやってきた。
彼女は庭で花を摘み、先輩侍女の部屋の花瓶にそれを生けた。
よい香りが部屋に漂ったが、それに気付かず、大きな溜息をつく真菜が彰子は心配になった。
「……お加減でも悪いのですか?」
そっとそう聞くと、真菜は顔を上げて笑みを浮かた。
内心はおかしくなりそうな勢いだったが、無邪気な彰子に心配かけまいと、気丈にふるまった。
「……なんでもないわ。ちょっと疲れただけ。……あなたは元気そうでなにより。何かいいことでもあった?」
真菜は普段よりうれしそうな彼女に気付いていた。
「……知り合いから文を頂きました」
そう言いながら顔をほんのりと赤らめる彰子に、ほんの少しだが真菜は癒された。
「あら? あの小太郎さまかしら?」
ちょっとからかうと、彰子は眼を丸くして驚いた。
「どうしてわかったのです!?」
驚いた彼女の顔に、真菜は笑った。
「それくらいわかりますよ。それで内容は?」
「お勉強が楽しいことと、良鷹さまの姉上様がご結婚されたことが書いてありました。
それと、お国のお菓子が入ってました。そうです。お茶を入れますのでご一緒にどうですか?」
真菜はお子様同士の文通に絆された。
惚れた腫れたがない純粋な子供は楽だと、うらやましく思った。
そしてぼんやりと、以前会った男三人組を思い浮かべた。
その中の一人が真菜の心を乱していた。
あの場でお縄にしておけばよかったと、内心悔み始めてもいた。
しかし、終わったことは仕方ない。これからの手立てを考えなければ意味がない。
「家来……。若君の家来……。そうだ!」
真菜は解決手段を見出した気がしていた。
政信が江戸での暮らしを始めてあっという間に半月がたった。
父に毎日会えてうれしく思ってはいたが、物足りなさをすでに感じていた。
その一つは、自由に出歩けないことだった。
殿様らしい格好を強要され、殿様になる修行が続いた。
そんな日課にうんざりして寝転がっていると、喜一朗が現れた。
「殿。ご機嫌いかがでございますか?」
いつも以上に真面目な彼に、政信も倣った。
さっと正座し、背筋を伸ばし尊大に言った。
「瀧川か、苦しゅうない。近こう寄れ」
「はっ」
その言葉に従い、立ち上がった小姓に、政信のいたずら心がわいた。
スッとその場に立つと喜一朗めがけ、突っ走った。
「隙あり!」
しかし、喜一朗に隙は無かった。
しっかりと防御の姿勢に入っていた。
「不意打ち無用!」
反撃を試みる彼に政信は嬉しくなった。
殿さま扱いは上辺だけ。今までと変わらない彼に安堵もしていた。
彼から少し離れ、堅苦しい豪華な羽織を脱ぎ捨てた。
「喜一朗、暇なら立ち合いしよう!」
「容赦しませんよ!」
喜一朗も裃を脱ぎ、着物袴姿に変わった。
そして取っ組み合いが始まった。
国の屋敷の部屋よりはるかに広いおかげで、大暴れしても大丈夫。
体力が有り余る男二人は、思う存分身体を動かした。
そこへ、年配の女中がある人物を連れ、部屋に入ってきた。
「若君、御殿さまの……これ! 何をなさる!?」
二人の大暴れに驚き、女中は立ち尽くしていた。その彼女の後ろには藩主磐城信行が居た。
すぐさま立ち直った女中が若様と小姓の大暴れを止めようとしたが、藩主は笑ってそれを止めた。
「よいよい。若い者はいいもんだ。さぁ、どっちが勝つか」
藩主が見守ることに気付かない二人は尚も、取っ組みあいを続けていた。
互いに譲らず、中々決着がつかなかった。
しかし、ある一瞬の出来事で、政信が勝った。
「よし! 俺の勝ちだ」
喜ぶ若様だったが、小姓は負けを認めなかった。
「卑怯です! 私の脇を妙な感じで触ったではありませんか!」
不満顔でそういう彼に、政信はニヤッとして言った。
「お前、まだ脇がダメなのか? 絢女さんに特訓してもらわんとな」
すると喜一朗は赤くなり、怒った。
「昼間っからそんな事を言わないでください!」
これは政信の罠だった。
直接的なことを言わず、喜一朗が嵌まるのを楽しむ。
真面目な彼が恥ずかしがって取り乱す様子が政信は大好きだった。
「俺、何か言ったか?」
「先ほど、私の妻と私が何とか……。あっ」
喜一朗はここで罠に気付いた。
しかし、時すでに遅し。
政信はニヤニヤして喜一朗のとどめを刺そうとした。
「フゥン……。そうかそうか」
「その、それは……」
完全に罠に嵌まった喜一朗に政信は満足した。
クソ真面目な普段の様子と全く違う彼が面白くてしょうがなかった。
そして最後の仕上げに移った。
小姓が一番嫌がるあれをするつもりだった。
「……恋しい奥方の変わりに俺が鍛えてやろう」
「嫌です!」
逃げようとした彼を、政信は羽交い絞めした。
すぐに妙な声を出して嫌がる彼に、半ばあきれた。
「……お前、こんなんで絢女さん抱きしめられるのか?」
「そんなこと殿に関係ありません!」
「泣いてるんじゃないか?『喜一朗さまのイケず!』って」
男の声のまま、女の口調で話す主に喜一朗はムッとした。
恋しい絢女はそんな下品なことは彼に言わなかった。
ただひと言、『お早いお帰りをお待ちしております。』
それ以外は本当に武家の妻らしい、上品な見送りだった。
「妻はそのような変な話し方はしません!」
「じゃあ、こうか?『喜一朗さま。行かないでください! 離しません!』」
そう言って政信は羽交い絞めを止め、背後から喜一朗の胴に腕を回し抱きしめた。
すると、喜一朗は悲鳴を上げた。
「ひぇっ。止めて!」
ひどいくすぐったがりの彼に、政信は呆れた。
「絢女さん、可哀想だな……」
男二人がふざけている姿に、藩主信行は咳払いをした。
さすがに見苦しくなってきた彼等を止めるつもりだった。
「あっ。父上!」
気付いた政信はすぐさま喜一朗を離した。