われてもすえに…
【35】 誓約
絢女の祝言の日から、小太郎は政信に会う機会がなかった。
忙しいからだろうとあまり気にも留めていなかったが、喜一朗までもが忙しそうなことに気付いた。
なぜなら、瀧川家へ絢女に会いに行くと、彼は決まっていなかったからだ。
絢目からも、忙しくて休みが取れないとの話を聞いていた。
そんなある日の朝早く、小太郎は突然父から呼び出された。
彼の顔は深刻だった。
「……どうかされたのですか?」
口を開かない父に、小太郎が聞いた。
すると少し間をおいた後、良武は言った。
「……お前に、言っておかなければならないことがある」
「はい」
しかし、良武は渋って本題に入らなかった。
「これは、口止めされていたんだがな、やはりお前に黙っておくのはどうかと思ったから言うんだ」
「はい」
重大な事をこれから話す父の様子を見た小太郎は緊張した。
姿勢を正し、父の言葉を待った。
「……実は、若様は江戸に行かれる事となった。もちろん、お前たちが遊びで行ったようなものではないことはわかるな?」
「……まさか」
小太郎はある予感がした。
「……殿様が若様を次期藩主に正式に決められた。それ故、これからは江戸の藩邸でお暮しになる」
この言葉の裏にあるものを小太郎は感じ取った。
江戸で暮らすとなれば、国には戻れない。
別れ、だった。
悲しさが湧きあがってきたが、同時に疑問も感じていた。
「……父上。殿は私に江戸に行くことを言うなとおっしゃったんですか?」
「そうだ。お前にだけは言うなと言われて……」
彼なりの気遣いだとは思ったが、小太郎は納得がいかなかった。
それと同時に、忙しい義兄を思った。
「……あの、義兄上はどうされるのですか?」
「一月置きに、江戸とこちらを行き来する。絢女は連れて行けんからな……」
「そうですか……」
義兄と姉ととも別れなければいけなくなることはなくなり、少し安心した小太郎だった。
しかし、主との別れがつらかった。
せめて見送りだけでもと考え、父に聞いた。
「それで、お二人の出立は?」
「……今日だ」
「え!?」
小太郎は驚いた。
父が教えてくれなければ、間に合わなくなるところだった。
しかし、政信自身が止めたことを、やってしまうのはどうかと、悩み始めた。
父はそんな息子に優しく言った。
「すぐに行け。走れば絶対に間に合う」
「しかし……」
「……後悔するかもしれんぞ」
小太郎はさらに悩み始めた。
そんな彼の隣に、早起きの下男が挨拶がてらやってきた。
そして吉右衛門は状況を把握するなり、優しく小太郎を諭した。
「若、お行きなさい。別れは告げるのが男でございますよ」
「でも……」
「若のことが嫌いで、言うな、来るなと言ったわけではないはずです。
本当は見送ってほしいに違いありません。迷うくらいなら、お行きなさい」
「そうかな?」
「はい。間違いありません」
彼の言葉で、小太郎の決心は固まった。
すっと立ち上がると、二人に向かって言った。
「行って参ります!」
「殿、やはり小太郎に黙って行くのですか?」
旅装の喜一朗は籠の中の主にそっと聞いた。
その声に、政信は答えた。
「あいつ怒るだろ? おいてきぼりだって。だからだ」
政信は若様らしい羽織袴で身を固めていたが、胡坐をかき、腕組みしながら、籠の中に施された豪華な装飾をぼんやりと眺めていた。
「そうですか……」
腑に落ちないと言ったような喜一朗の声が、政信の耳に入った。
彼はそんな小姓を少しばかりからかった。
「お前こそ、残らなくていいのか? 可愛い絢女さんが泣くぞ。新婚早々家を空けるなんて」
すると咳払いをした後、喜一朗からボソボソと返ってきた。
「……仕事ですので。……妻も承知しております」
そう大真面目に言った彼のことを政信は笑った。
「一丁前に『妻』か。いいなぁ」
「殿もじきに……」
政信は深く溜息をついた。
「なんか複雑だな。本当に姫さんと結婚か……」
江戸に向かい、藩邸での暮らしに慣れたら祝言。
そう父からの通達が来ていた。
しかし、政信には全く実感がわいていなかった。
その声音を察して、喜一朗が窺った。
「嬉しくないのですか?」
「いいや。磐城政信として姫さんの前に出るのがちょっとな……」
政信の不安はそれだった。
恋しい気持ちは募っていたが、同時に不安も大きくなっていた。
拒まれたら、嫌われたら、と良くない方向ばかり考えるようになっていた。
そんな主に気付いた喜一朗は、やさしく言った。
「大丈夫です」
「そうだといいがな……」
そんな二人の傍に、一行をまとめる侍が出てきた。
「そろそろ出立の刻限でございます」
政信は、腕組みしていた手を頭の後ろで組んだ。
胡坐を崩し、片足を行儀悪く、もう一方の足に乗せた。
そして精一杯の嫌味を周囲の侍に聞こえるように言った。
「さてと、つまらない籠の旅か!」
「殿!」
喜一朗がとっさにたしなめたが、政信は聞かなかった。
さらに嫌味を続けた。
「馬で行けば一日でつくだろ。何が楽しくて駕籠で二日かけていかんとならん?
金の無駄だ! こんなことに使うより、他のことに使えよ!」
そうやって近頃疑問を感じていた自国の藩政に文句を言ってみたが、一介の若様にそこまでの権力はなかった。
先ほどのまとめ役の男が籠の側により、何の感情もこもってない声で言った。
「御父上の命でございます。大人しく、お従いくださいますよう……」
政信は心を落ちつかせ、諦めた。
そして大人しく従うことにした。
「わかったよ。父上に後で文句言う。いいから、出発しろ」
籠の中で政信は再び腕組みをした。
少し行くと、突然一行の物が騒ぎ始めた。
「狼藉者か!?」
「いや! ガキだ!」
「小僧。無礼であるぞ!」
そう怒鳴る男どもの声の中に、子どもの声が混じっていた。
「うるさい! 俺は若様の小姓だ! 狼藉者ではない!」
「ガキはうるさいな。どこの子どもだ?」
「ガキじゃない! ガキって言うな!」
ぼんやりとしていた政信だったが、その声と『ガキ』というと怒る子どもにはっとした。
そして大きな声で言った。
「止めろ!」
その命令に従い、家来たちはすぐさま籠を下した。
籠の中の政信は喜一朗を呼んだ。
すぐに傍にやってきた彼にそっと聞いた。
「……小太郎だよな?」
「はい。……早くしないと、潰されます」
その言葉通り、小太郎は厳つい男に取り押さえられ、わめいていた。
「離せ!」
「黙れ。痛い目に会いたくなかったら暴れずにさっさと立ち去れ」
「イヤだ!」
力で押さえる男の隣に違う男がやってきて聞いた。
「こいつの親を連れてこい。坊主、父上の名は?」
少し優しい口調で言ったその男にも小太郎は刃向かった。
「絶対に言わない!」
「なんだと?」
暴れまくり、抵抗する小太郎に次から次へと男たちがたかり始めた。
籠から降り、近くに歩み寄っていた政信はそんな男たちに呆れた。