われてもすえに…
絢女は、穏やかに話し始めた。
「……強くなりなさい」
「はい」
「剣や槍が強いだけじゃダメ。わかりますね?」
「はい」
「弱い者いじめはしない。悪いことはしない。人から尊敬される男になりなさい」
「はい」
「……できるはずです。姉上は、信じています」
小太郎の眼に映る、笑みを湛えた彼女の顔が、再び涙で滲んだ。
しかし、もう泣きはしなかった。
小太郎は絢女に、自身の決意を告げた。
「……姉上」
「はい」
「……今日から、本当に大人になります。必ず、良鷹の名に相応しい男になります」
そう告げた小太郎の顔を見た絢女はにっこりとした。
「わたしも『瀬川小太郎良鷹』が完成する日を楽しみにしています。必ずその誓いを守りなさい。小太……良鷹さん」
小太郎は姉の部屋から退出し、泣いて赤くなった眼をこすると屋敷の裏口へ回った。
待ち合わせをしていたからだった。
裏口の扉をあけると、若い男が猫と遊んでいた。
「よう! 案外早かったな。……姉上としっかり話せたか?」
「はい」
「よし。だが、涙は縁起が悪い。喜一朗と姉上の前では必ず笑うんだぞ」
「泣いてなんかいません!」
「そうか。まぁ、強がるな」
待ち合わせの相手は政信。
彼は小姓の祝言に出たがったが、目付や女中の浮船に止められ、不参加のはずだった。
しかし、そんなことに屈する政信ではなかった。
影を使い、手慣れた抜け出しをやってのけ、小太郎の屋敷の前にいた。
もちろん、瀬川家も瀧川家も彼の参加を知るはずがない。
新郎の喜一朗を驚かそうと二人だけの秘密だった。
政信は、さっきまで一緒に遊んでいた猫を抱き上げると、小太郎と共に歩き始めた。
小太郎は、おとなしい猫を見て言った。
「名前はどうしたんです?」
「蛍だ」
「へぇ。好きな人の名前付けたんですか」
「いいだろ?」
うれしそうに言う主に、小太郎はとっておきの話をすることにした。
「姫様はあの猫に『お藤』と名を付けたそうです」
それは文を寄越した彰子から入手した情報だった。
達筆に圧倒された小太郎だったが、江戸の彼女の暮らしぶりを思い浮かべた後、自身も返事を出していた。
政信は、猫の名前の由来にピンとこない様子だった。
小太郎もわからなかったが、彰子の文にそれもしっかりと書いてあった。
「へぇ。『おふじ』か。字は?」
それ故小太郎は気付かせるべく、言った。
「藤次郎の『藤』です」
そう言った途端、政信は歩みを止めて驚いた顔をしていた。
「……俺の、名か?」
「はい!」
「……俺の名」
呟く主を見てニヤニヤしていた小太郎だった。
そんなこんなで、祝言が行われる瀧川家の近くに二人はやってきた。
人に見られては厄介なので、裏に回った。
そしてどこからともなく現れた影に政信は『蛍』を預け、代わりに着替えの包みを受け取った。
さらにその場で着替え始めようとした。
そんな彼に小太郎は聞いた。
「……ここで着替えるつもりですか?」
「あぁ。なんか問題あるか?」
「人通りがすこしはあるから……。女の人が見たら叫びますよ」
当たり前のことを言ったはずだったが、政信は真面目な顔で言った。
「俺んとこの女中は叫ばんぞ。無表情か、影でこそこそ喜ぶ」
呆れる事を言い出した政信に小太郎は項垂れた。
屋敷の女中たちの異様さを思い出していた。
年増の者達は無表情。若輩者は男の品定め。
「普通の人は叫ぶんです! お屋敷のあの人たちは変なんです!」
必死に訴える小太郎を見た政信は、しぶしぶ人目に着かない所で隠れて着替えを済ませた。
若様らしい上等な着物ではなかったが、祝言に参列するには不足ない格好で彼は出てきた。
そして妙なことを言い出した。
「小太郎、八年後に俺と喜一朗とお前、誰が一番か勝負しよう」
「何の勝負です?」
「……誰が一番良い身体か。男らしいかだ」
小太郎は余裕の表情で言った。
「じゃあ、私の勝ちです」
「なんで?」
満面の笑みで、小太郎は言った。
「二十六が十八にはかないませんよ」
しかし、政信は負けてはいなかった。
「言ったな? そんなお子様体型でよく言ったもんだ」
政信は小太郎の腹をつっついた。
子供の身体は柔らかかった。
「ぷにぷにする。やっぱりお子様だ」
小太郎は真っ赤になって怒った。
「突っつくな! お子様って言うな!」
しかし、全く怖くは無かったようだった。
「ははは! 悪い悪い」
政信に大笑いされただけだった。
瀧川家での祝言は無事に進んで行った。
三々九度を終えほっと一息ついた新郎、喜一朗の眼にニヤニヤして自分に手を振る二人の人物の姿が入ってきた。
一人は居るのは当たり前、もう一人は、いてはいけない人物だった。
驚きのあまり、喜一朗は声をあげてしまった。
「殿!?」
その素っ頓狂な声に反応して、新婦絢女の父、良武は部屋を見渡した。
そして原因となった者の姿を見つけた。
「若様! どうしてここに!?」
そう言ったとたん、部屋中が大騒ぎになった。
少しすると、皆が頭を下げて這い蹲る光景が広がっていた。
気まずそうに政信は溜息をついた。
「……ちぇっ。ばれたか」
しかし、静まり返った部屋は何も変わらなかった。
政信は嫌気がさし、頼んだ。
「……良いから。頭下げるんじゃない。忍びできてるんだ。頼むから頭を下げないでくれ」
しばらくすると、一人、また一人と頭を上げ始め、部屋は元に戻ったかのように見えた。
しかし、良武はそうもいかなかった。
「……若様、後でゆっくりお話を」
厳しい眼差しでそう言ったが、若様は聞いてはいなかった。
「イヤだね。それより、小太郎の姉上!」
「はい?」
突然、政信は絢女に向かって歩き始めた。
絢女も突然のことで驚いていた。
初めて見る、夫と弟の主を目の前に、緊張していた。
しかし、政信は彼女の前に行儀よく座ると、さわやかに言った。
「喜一朗はクソ真面目。仕事を頑張りすぎて家を疎かにせぬよう、手綱さばきをお願いいたす」
「はっ、はい」
「だが、面白い奴だから、絶対飽きはしない。お幸せに」
「もったいないお言葉……」
絢女は恐縮しきっていたが、丁寧に頭を下げた後、政信を見た。
そして、夫と弟が付いて行くのはこの男だと、直感した。
祝言の席が無礼講になってくると、小太郎は絢女に近寄った。
周囲は飲んだり話したり騒がしいが、花嫁だけは静かに座っていた。
「姉上、どうでしたか?」
「少し疲れたけれど、楽しかったわ。それより、良鷹さん、若様って本当に良い人みたいね」
姉にそう言われた小太郎はうれしくなった。
そして、笑顔で言った。
「はい。私は、殿の傍に居ます。そう決めました」
「そう。貴方も旦那様も……」
言葉が途切れた絢女の、驚いたような目が見る先をたどった小太郎は、固まった。
彼の眼に入ったのは、政信が酒に酔い、喜一朗に絡む姿だった。
「……喜一! 俺はお前が大好きだ!」
「はい……」