われてもすえに…
【34】 変化
日が沈む少し前、小太郎は帰宅した。
縁側で茶を飲んでいた吉右衛門に帰宅の挨拶をすると、彼は茶菓子を一つ小太郎にくれた。
それを口に入れ甘さを楽しんでいると、年老いた下男は言った。
「若、しっかり留守の理由を言わねばなりませんよ」
「なんで?」
「若の姿が見えないと、旦那様と奥様が大層心配して居られる……」
小太郎は彼の言葉にはっとした。
何も言わずに家を出て、江戸に行っていた。
しかし、父にそのことは話せない。しかるべき理由を考えておかなければならない。
少し頭をひねった後、小太郎は居間に向かった。
「一体どこに行っていた!?」
小太郎は、父と母に叱られた。
無断で家を開ければ怒られるにきまっていた。
「お屋敷で、殿と喜一朗殿に泊まりがけで学問を教えてもらっていました」
一応、嘘ではなかった。
馬の背で揺られている間、政信に宿題をやっている間に疑問に感じていたことを聞いていた。
しかし、
「なぜ一言言付けを頼まなかったの?」
と、ギクッとすることを母に言われた。
影に頼めば、すぐに出来ることだったがすっかり忘れていた。
言い訳をしても怒られるだけと思った小太郎は、正直にそのことを言った。
「すっかり忘れて……」
すると父の良武は溜息をついた。しかし、それ以上の説教はなかった。
「……二度とするんじゃないぞ。わかったな?」
「はい。肝に命じます」
ホッと胸をなでおろす小太郎に、良武が言った。
「……説教はここまでだ。忙しいからな。お前もやることが沢山だ」
「なんで?」
すると良武は少し寂しげに呟いた。
「……じきに絢女の祝言だ」
そして彼は部屋を後にした。
小太郎は父の言葉に驚いた。そして部屋にまだ残っていた初音に聞いた。
「……母上、もっと先じゃなかったの?」
すると、彼女も少し寂しそうな顔で言った。
「……早まったの。というより、元に戻ったの。お殿様の命ですって」
「そんな……」
小太郎と絢女との別れが目前に迫っていた。
次の日の午後、道場帰りに小太郎は瀧川家を訪ねた。
瀧川家の者たちは、瀬川家以上に忙しそうだった。
目当ての喜一朗は下男、下女と供に、襷掛けをし、尻っ端折り姿で掃除をしていた。
珍しい姿を眺めていると、喜一朗が気付いた。
「小太郎か? すまんな一家総出で大掃除中なんだ」
「なぜご自分一人で掃除を?」
普通は下男下女が手伝ってくれる。しかし、彼は一人でやっていた。
周りには誰も居ない。
喜一朗は少し恥ずかしそうに言った。
「……絢女殿を迎えるんだ。旦那の俺がやらないでどうする?」
その顔を見た小太郎は少し寂しくなったが、それを振り払うかのように言った。
「手伝っても良いですか?」
「あぁ。いいぞ。……正直、助かる」
小太郎も喜一朗に倣い、身支度をした後、手伝い始めた。
部屋の隅にあった棚から本を取り出し、埃を払っていると、興味深そうな兵法の本が出てきた。
パラパラとめくっていると、喜一朗が寄ってきた。
「あ、それそんなところにあったのか?」
「探してたんですか?」
「あぁ。ちょっと調べたかったからな。でもいい、読みたかったらお前にやる。
書き込みが少ししてあるが、使えなくはないはずだ」
「ありがとうございます!」
小太郎はその本を懐にしまい、掃除を続けた。
少し日が陰ったころ、ほぼ片付いた部屋の中で二人は茶を飲んでいた。
お茶うけに煎餅をかじりながら、小太郎は貰った書物を見ていた。
難しい言葉に注釈が書き込んであったり、重要な個所に線が引いてあったりと、真面目な喜一朗らしい書物だった。
が、その中に意味不明な文字をいくつか見つけた。
「……お、や、ぬ? 違うな。あ、や、ね……でもない」
書物を顔に近づけたり、遠ざけたりして解読を試みる小太郎に喜一朗が気付いた。
「どうした? 変な物でも書いてあったか?」
喜一朗が覗きこんだ瞬間、小太郎はその謎の言葉がわかった。
「あっ! 姉上の名前だ!」
『あやぬ』でも『おやね』でもなく『あやめ』だった。
しかし、歓声を上げたとたん、喜一朗は小太郎の手から書物を奪っていた。
そして一通り目を通すと言った。
その話し方は、明らかに動揺していた。
「小太郎、この落書き消してからお前に渡す。今日持って帰るのはやめにしてくれないか? いいか?」
そんな彼を小太郎はじっと見つめ、何も言わなかった。
「……聞いてたか?」
小太郎はニッと笑って言った。
「はい。義兄上、本当に姉上がお好きなんですね」
「え?」
喜一朗の顔はみるみるうちに赤くなった。
そんな彼を前に、小太郎は姿勢をただし、手をついて言った。
「姉上を、よろしくお願いします」
深々と頭を下げた。
「心得た」
そして、小太郎は顔を上げるなり不敵な笑みを浮かべて行った。
「……泣かせたら、連れ戻しに来ますので」
喜一朗は笑って言った。
「……怖いな。良鷹殿は」
瞬く間に、祝言の日になってしまった。
小太郎は絢女の部屋に向かていた。
しばらく立ち入り禁止となっていたが、母から許可が出たので早速向かった。
そして部屋の外から、姉に声をかけた。
入室の許可を取るべきところであったのに、変なことを言ってしまった。
「……姉上、本当にお嫁に行くの?」
「えぇ」
猛烈に寂しくなり、泣きそうになった小太郎だったが、我慢して言った。
「……入ってもいい?」
「いいわよ。おいで」
小太郎は姉の部屋に足を踏み入れた。
中の絢女を見るなり、小太郎は息をのんだ。
彼女は真っ白の白無垢姿だった。
生まれて初めて見るその着物の美しさと、姉のいつも以上の美貌に驚いた小太郎は言葉を忘れてしまった。
立ち尽くす弟を見た絢女はくすりと笑った後、聞いた。
「……どう? 似合う?」
「……綺麗。……でも」
「なに?」
小太郎は泣いていた。
嬉しいはずなのに、悲しさが少し混じっていた。
すすり上げながら言った。
「……姉上、本当に行っちゃうの?」
「……泣かないの。わたしまで泣けちゃうでしょ?」
そう言った絢女も泣きだしていた。
「母上にお化粧落ちるって怒られるの。もう泣かないで……」
絢女は小太郎の頭を撫でた。
いつもは嫌がる小太郎も、大人しくされるがままになっていた。
しばらく沈黙が続いたが、小太郎は言った。
「……義兄上と、仲良く。それと、たまには帰ってきて。あと、遊びに行ったら、会ってくれる?」
「もちろんよ」
「ありがとう。姉上」
「小太郎」
絢女は小太郎を抱きしめた。
小太郎の鼻に、化粧と香のにおいが届いた。
今日以降はこのように抱きしめてはくれなくなる。と思った小太郎は、思いっきり彼女に甘えた。
ギュッと抱きつき、彼女の温もりを感じた。
しばらくそうした後、絢女は身体を離し、小太郎の眼を見た。
「あなたに言いたいことがあるの」
「なに?」
小太郎は一言一句聞き漏らすまいと、耳をそばだてた。