われてもすえに…
正体をなぜか隠し続ける主に、今まで思っていたことを小太郎は言った。
政信から返ってきたのは、不安そうな言葉だった。
「……姫さんは俺が怖いんだ。『磐城政信』の家来『藤次郎』なら、面と向かって話してくれる」
「だったら、余計打ち明けた方が……」
「……止めておく。正式に結婚が決まってからにする。……まぁ、姫さんの反応も見たいしな」
そうやってニヤリとする彼はいつもの政信に戻っていた。
安心した小太郎は、彼に向かって言った。
「姫様驚きますよ。双子だって思うかもしれませんね!」
「それ面白いな!」
そんな話をしているうちに、喜一朗の顔の落書きはほとんど落ちた。
残りは日が解決してくれるということで、彼を風呂から上げた。
そして三人揃って最後の逢瀬に出かけた。
いつもの通り、庭で彰子と遊んだ小太郎は、言い辛かったが彼女に告げた。
「今日で俺たち、国に帰るんです……」
「そうですか……。仕方ありません。お仕事ですもの……」
寂しそうに言う彰子に、小太郎はもう一つ告げることにした。
「それで、彰子ちゃんにお願いがあるんだけど……」
「なんですか?」
「あの、もしよかったら、文通、できないかなって……」
ドキドキしながら、そういうと彰子は確認するように小太郎に窺った。
「文のやり取り、ですか?」
「そう」
すると彰子の顔はぱっと明るくなった。
返ってきた返事は良いものだった。
「お願いします。わたくしも、良鷹さまにお手紙書きます」
「良いの?」
うれしくて堪らない小太郎は彰子の手を取り彼女の眼を覗き込んだ。
「はい」
彰子は頬を染め、少し恥ずかしそうに返事をした。
そんな彼女に小太郎は懐から文を取りだし、手渡した。
「じゃあ、これが始め。返事は国の『瀬川』に届けろって言えば着くから」
彰子はそれを大事そうに受け取り、懐にしまった。
「必ず、書きます」
「約束だね」
「はい」
子ども二人の、最後になるかもしれない逢瀬が過ぎて行った。
一方、政信は緊張しながら、蛍子の前に贈物を置いた。
「これが若様からの贈り物だ。開けてみてくれ。気にいるかどうか……」
蛍子は布をそっと取り、中を見た。
そして驚いた様子で言った。
「猫?」
「若様のところにこの猫の姉が居る。姫さんのところに妹の猫だ」
じっと猫を見詰める蛍子を政信は見ていた。
『嫌い』だの『要らぬ』などという言葉が返ってくるのを恐れ、気が気ではなかった。
しかし、蛍子が発した言葉は違った。
「……可愛いの」
その優しい声に、政信の緊張は収まった。
「……猫、好きか?」
「好きじゃ。雪のように白い。良き猫じゃ」
そう言って蛍子は猫をじっと見つめていた。
その様子を見て、政信は提案した。
「……抱いてみたらどうだ?」
しかし、穏やかな声で蛍子はその提案を退けた。
「昼寝を邪魔するのは無粋と申すもの。起きてからにする」
その言葉通り、子猫は籠の中で丸くなり眠っていた。
二人の間を、静かな時間が流れて行った。
「姫様」
猫を見詰めていた蛍子は、突然言葉と居住まいを改めた政信に、はっとした。
「……なんじゃ?」
「某、本日にて仕事が終わりました。それ故、国へ帰ります」
「……帰るのか?」
あまりに短い逢瀬に、蛍子は愕然とした。
「はい。殿に、戻って来いと」
『行くな』とは口が裂けても言えない蛍子は、感情を押し殺し、何の感情も込めずに言った。
「……そうか。ご苦労だったの」
すると、政信から聞かれた。
「……なにか、殿に言付けはございますか?」
「そうじゃな……」
一言、礼でも言おうとした矢先、喜一朗の声がした。
「藤次郎! 誰か来ました!」
その声に、蛍子も政信も驚いた。
「なんでだ!? 人払いしたはずだぞ!」
「真菜。どこじゃ?」
蛍子が呼ぶと、焦った様子の真菜がやってきた。
「申し訳ございません。まもなく殿さまがお越しになるそうで、女中頭に押し切られました……」
その報告を耳にした政信はすぐさま退散を余儀なくされた。
「小太郎、喜一朗、行くぞ!」
しかし、天井裏に戻る時間は無かった。
仕方なく、庭から抜け出すことになった。
政信は小太郎を喜一朗に任せ、殿《しんがり》を進んで申し出た。
それは一時でも長く、蛍子の傍に居たいがためだった。
家来二人の脱出を見届けた後、庭に飛び出た政信に蛍子は言った。
「……行くのか?」
「はい。捕まっては差支えがあるので」
「そうか……」
「姫様、いつか必ず逢いましょう。ではその時まで……」
そういうと政信はひらりと塀を乗り越え、姿を消した。
茫然と立ち尽くす蛍子に、真菜は声をかけようとした、しかしそこへ女中頭がやってきた。
「……姫君、殿さまが参られました。お話があるそうです」
言われるまま部屋の上座に戻り、着座すると、藩主磐城信行が現れた。
「姫、今日はそなたにとって重大な話がある」
「はい……」
藩主の話は、傷心の蛍子を余計に追い詰めた。
蛍子はその晩、贈り物の猫を初めて抱いた。
そして、猫の布団の下に文を見つけた。
差出人は『磐城政信』
それを見て、蛍子は溜息をついた。
「藤次郎では、ないのか……」
しかし、将来の夫となる男からの手紙を捨てることなく読むことにした。
筆跡、文面から、彼の人となりが解るかもしれないと期待しながら。
『……そなたの身の上話、藤次郎から良く聞いた。寂しいのではと思い、猫を贈る。
可愛がって頂きたい。
其れがしの猫とそなたの猫、いつか逢い見えることができることを願う……』
真面目な文面、達筆に蛍子は少し安心した。
「……政信、か」
膝の上で大人しく丸くなっている子猫を撫でた後、蛍子は文を読み進めた。
『……そなたの顔を見ることがかなわず、残念に思う。
いつか逢う日に、ぜひともそなたの笑顔が見たい……。』
その文句に、蛍子は溜息をついた。
「笑顔などと……」
蛍子は笑うことが無かった。
京ではよく笑っていた。しかし、江戸に居る今では侍女相手にほほ笑みは浮かべても、心の底から声を出して笑ったり、笑みを浮かべたりはしていなかった。
不安と悲しみが巣くったままで笑えるわけがなかった。
しかし、その不安と悲しみは、いつの間にか和らいでいた。
『藤次郎』のおかげだった。
彼に逢うことが楽しみになり、彼の訪れを待った。
しかし、その日の『藤次郎』との別れで、蛍子は現実に引き戻された。
しかも、その直後に『政信』との結婚が、舅になる藩主、磐城信行から正式に告げられた。
また、身形の改めをも言い渡された。公家風を捨て、武家に倣うようにとの女中頭からの冷たい言葉が、蛍子に突き刺さった。
もはや逃げる道は本当に無くなった。
蛍子は、なにも考えたくない心境だった。
それ故、侍女を誰も寄せ付けず、一人部屋で猫を膝に乗せて文を読んでいた。
白い子猫を撫でながら、彼女は呟いた。