われてもすえに…
突然馬の向きを変え、来た道を逆走し始めた。
「帰りましょう。江戸行きは中止です!」
「そんなこと言うなよ! なぁ!」
喜一朗を宥めすかしながら、一行は江戸へと向かった。
その日、蛍子は真菜とともに縁側に座り、書を括っていた。
彰子は、隣の部屋で昼寝をしていた。
幼い彼女にとって宿直《とのい》は大きな負担。
真菜が来てから楽にはなったが、未だ侍女が少ないので仕事は大変だった。
真菜はそっと主に声をかけた。
数日前から気になっていた。
「姫さま、やはり何か悩みごとでも?」
しかし、言われた蛍子は言い出す勇気がなかった。
穏やかで博識な真菜を信頼し始めてはいたが、どうしても秘密の密会を打ち明ける事が出来なかった。
黙っていると、真菜は言った。
「なんでも、おっしゃってください。秘密は必ず守りますので」
その言葉に、蛍子は揺れた。
「……本当か? 誰にも、言わぬか?」
「はい。必ず」
穏やかにそう言った真菜を信じ、蛍子は口を開いた。
「……実は」
しかし、次の言葉を言う前に男の声で遮られた。
「よぅ! 元気か?」
彼はそう言った後、天井から飛び降りた。
いきなりの出来事に真菜は少し驚いた様子は見せたものの、直ぐ様懐剣を懐から出し、構えた。
普段穏やかな真菜が変貌した。
「曲者! 姫さ……」
しかし刀を抜く前に、彼女は守るべき主に口を封じられた。
口を封じた蛍子は、嬉々として突然現れた男の名を呼んだ。
「藤次郎!?」
そう呼ばれた政信は、蛍子に向かって丁寧に挨拶した。
「姫さま、お久しぶりです。して、その御女中は?」
「真菜という。妾の味方じゃ。な?」
蛍子が口を抑え、喋られないようにしていたが彼女は眼を白黒させながら、主の行動に驚いていた。
今までに見たこともないような、うれしそうな明るい顔を蛍子はしていた。
政信は蛍子に捕えられたままの真菜を見て言った。
「真菜殿、身のこなしが早い。姫さん守るのに丁度良い。だが姫さん、苦しそうだから離してあげたほうがいい」
「そうじゃな……」
蛍子から解放された真菜は、素早く短刀を抜き、政信を睨んだ。
「無礼者! 侵入して何を言う! はよう出てゆけ! 人を呼ぶぞ!」
「……こりゃ、性格浮船そっくりだな。やれやれ」
そうぼやいた政信に尚も真菜は懐剣を突き付け、怒鳴った。
「つべこべぬかすでない! その方、名を名乗れ!」
政信は礼儀正しく身分を告げた。
もちろん、仮の姿のものだった。
「藩主のご子息、政信殿配下の者で藤次郎と申す。俺の仲間が上に後二人待機してる」
「……誠か? 証拠は?」
未だ疑う彼女から意外な言葉が返ってきた。
「証拠? 証拠は……」
政信は頭を働かせ佩刀を差し出した。
「……若様に、褒美でもらった。家紋入りだろ?」
自分の持ち物なので家紋は付いているに決まっている。
「確かに、藩主家の御家紋」
これで一件落着と勝手に見た政信は真菜に告げた。
「ということで、真菜さん、外してくれないか?」
「は!?」
突拍子もない言葉に真菜は驚いた。
「用事が済んだらすぐ帰りますので」
「……本当か?」
尚も怪しむ彼女を前に、黙っていた蛍子が口を開いた。
「真菜、頼む。藤次郎と話がしたい」
自分に懇願する主の姿、いつも寂しげな彼女と全く違う姿に、真菜は驚き動揺した。
「……しかし、姫さま」
「そうじゃ、彰子、そなたも、頼んでおくれ」
騒ぎを聞きつけ、起きてきた彰子は主の望みをかなえるべく、真菜に懇願した。
「はい。真菜さま、お願いいたします。良鷹……いえ、藤次郎さまとお話しさせてくださいませ」
彰子は、すでに小太郎のことで頭がいっぱいだった。
主の願いは大事だが、自分の願望も実現させたかった。
主と、妹のような侍女に懇願され真菜は折れた。
政信を未だ信じていない様子だったが、蛍子を喜ばせたい気持ちの方が強かった。
「……しかたあるまい。日が陰ったら必ず帰るのだぞ。良いな?」
「ありがとうございます」
政信はありがたい言葉に素直に頭を下げた。
しかし、真菜は未だ元の優しい穏やかな女に戻ってはいなかった。
「ただし……」
「はい?」
「……姫さまに何かあったらただではおかぬからな。覚えておけ」
そう捨て台詞を残して消えた恐ろしい侍女に、さすがの政信も背筋が凍った。
天井裏でも、小太郎と喜一朗が二人で震えていた。