われてもすえに…
【31】 藩邸
江戸の藩邸では、蛍子が侍女の彰子と真菜とともに、庭を散策していた。
綺麗に整えられた庭を花や木を眺めながら歩き、池の鯉や鴨に餌をやった。
少し歩いた後、蛍子は思い立って侍女に命じた。
「真菜、庭で茶でも点てよう。支度を頼む」
「はい。ただいま」
彼女が去るのを見届けると、蛍子は隣に残る彰子に言った。
「藤次郎は、やはり来ぬな……」
「……はい。いかがされたのでしょう?」
そう彰子が返事をすると、蛍子は寂しそうな顔で呟いた。
眼は、どこか遠くを眺めていた。
「仕事が、終わったのかもしれぬな……」
「しかし、挨拶無しでお帰りになるでしょうか? 何か一言あってもよろしいと思うのですが」
彰子は主を慰めるために、こう言ったが蛍子の顔が晴れることはなかった。
「そうだとよいがの……」
彼女は屈みこみ、足もとに咲く花を摘み取った。
彰子に聞かれない様、小声でつぶやいた。
「逢いたい……。藤次郎……」
その手にある花を、彼に渡したかった。
ただ一言、『蛍子』と彼に言ってもらいたかった。
しかし、それは叶わぬ事。深くため息をつき、空を眺めた。
彼女の心とは正反対の、よく晴れた空だった。
そうしているうちに、真菜が戻ってきた。
「姫さま、ご用意が整いました。……その花、生けましょうか?」
「頼む」
逢いたい男にではなく、侍女に花を渡した。
暗い様子の彼女に、真菜は気付いた。
「姫さま、どこかお加減でも?」
人生経験は女三人の中で一番豊富。
それをわかっている蛍子は、ふと相談したくなったが、喉まで出て止めた。
秘密の逢瀬は、彰子と蛍子だけの物だった。
「なんでもない」
「……そうでございますか?」
少し気掛かりな様子だったが、深く詮索はせず、代わりに彰子に声を掛けた。
「彰子、手を洗ってらっしゃい。それが終わったら、お手前の稽古ですよ」
「はい。では、失礼します」
彰子は二人と別れ、手水鉢で手を清めた。
子どもながらに主の心苦しさを思い、同情した。
彼女自身も、小太郎に逢いたくて堪らなかった。
その気持ちと一緒だと考えた。
しかし、彼女は半分諦めてもいた。
彰子の眼に映る小太郎、良鷹は年上の男。
男前の彼のこと、間違いなく女からモテる。
同い年ぐらいの若い綺麗な女を好きになるに決まっている。
子どもの可愛くない自分など、相手にはしてくれない。
『今でも十分綺麗ですよ。』
そういったのはお世辞に決まっている。
割り切ったつもりだった。
しかし、彼女は『源氏物語』が大好きだった。
とりわけ、『若紫』の段が。
光源氏が幼い若紫を見初め、攫い、妻にする。
少し過激な話だが、彰子はその話に夢中になった。
自分を若紫に見立て、小太郎を光源氏に重ねた。
その晩、彰子は源氏物語の絵巻を再び眺めた後、願った。
「姫さまに藤次郎さまの訪れがありますように。それと、良鷹さまともっと仲良くなれますように……」
最後に逢った日の小太郎の笑顔を思い浮かべ、彰子は眠りについた。
早朝、小太郎は自宅の門の前にあくびをこらえて立っていた。
政信が現れるのを待っていたからだった。
数日前、またも道場に遊びに来た政信から『早朝、迎えに行く。』との文をもらった。
少しすると、彼は馬で現れた。
「よぅ。おはよう! 小太郎」
朝早いのに元気な主に、小太郎も負けじと挨拶を返した。
「おはようございます。あの、喜一朗殿はどうされたんですか?」
少し心配していた。
最初に江戸へ行くときも反対した彼の事、今回も猛反発したに違いない。
小太郎が思った通り、喜一朗は不平不満でいっぱいだった。
「居るぞ。文句ぶつぶつ言ってうるさいけどな」
再びくすぐり攻撃で負けた彼は、しぶしぶ主の『わがまま』に付き合わされていた。
政信の馬の背で、小太郎は政信を見た。
身体が小さすぎて、馬には乗れなかったので、主と共に同じ馬だった。
「殿、またあの家に泊まり込みですか?」
隠れ家は面白い思い出でいっぱいだった。
また行きたい衝動に駆られた小太郎だった。
「二泊だけだ。怒られるからな」
「はい!」
うれしくなった小太郎は、政信と色々話しながら、道を進んだ。
すると、突然政信から相談された。
「なぁ、姫さんに何かあげたいんだが、名案ないか?」
「何かってなんです?」
抽象的な相談に、小太郎は素直に返した。
そんな彼に、政信は首をかしげた。
「それがわからん」
「喜一朗殿に聞いたらどうです? 私なんかよりずっと良いと思いますよ」
「そうだ。名案だな。先輩、女子には何を贈れば喜ばれるのでしょう?」
半分ふざけながら、喜一朗に窺うとぶっきらぼうに返事が来た。
「簪か櫛が妥当でしょう。常識です」
政信はその助言について考え始めた。
「だけどな。あの姫さん、京の都出身だろ? 『趣味が悪い』とか『無粋』って言われそうだ」
実際、蛍子は未だ武家風を受け入れず、京風のままだった。
そんな厄介な事を小太郎もよく把握していた。
彼の相手の彰子も主、蛍子と同じだったからだ。
「……そうだ! お菓子はどうです?」
小太郎は、自分がもらってうれしい物の観点からその答えを導き出した。
しかし、主に笑われた。
「おぉ。さすがお子さま。飴をあげようか? 甘いぞ」
「俺はお子さまじゃない!」
ムッとした小太郎は主に喰ってかかった。
しかし、高い声、子どもの顔で怒鳴っても政信の笑いを誘うだけだった。
「はは。悪い、悪い。菓子か……。でもな、残るものが良いんだよな。形にも、心にも」
しばらく考えていた小太郎の眼に、騒ぐ雀の姿が見えた。
そして閃いた。
形に残り、心にも残るもの。
「鳥はどうです? 鸚鵡や十姉妹とか。綺麗なかわいい鳥」
しかし、政信から快い返事は聞けなかった。
「……それもなぁ、『籠の鳥』が連想されるだろ? それこそ無粋。姫さんが可哀想だ」
「そうですか……。難しいですね」
すると、少し機嫌が直った喜一朗が口をはさんだ。
「ならば、猫か犬はどうです?」
この言葉に、政信は答えを見出したようだった。
「そうか! その手があった! だが、どこで買うんだ?」
「買うよりも、影に頼んでみたらどうですか? よりよいものが見つかると思いますが」
喜一朗は冷静に判断し、そう主に助言した。
「そうだな、そうしよう。さすが先輩」
政信は上機嫌で喜一朗を褒めた。
さすがの喜一朗も、それに絆されたようだった。
「それほどでも……」
少し照れ気味に言う彼をちらっと見た政信は小太郎に目配せし、
二人でニヤニヤしながら言った。
「では、参考までにお伺いします。先輩は、小太郎の姉上に何を贈ったのですか?」
上機嫌の喜一朗の心は一気に冷めた。
「は!? ……殿、私の許婚の情報をどこから?」
「小太郎殿から聞きました。な?」
「はい」
義弟と主にからかわれ、再び喜一朗の機嫌は悪くなった。