われてもすえに…
【21】 恋路
それから二日後、その日も政信は蛍子の姿を見ることはできなかった。
しかし、初めて彼女に名を呼んでもらったことに大喜びしていた。
『藤次郎』と字の呼び捨てだったが、自分を覚えてくれたことに、嬉しくてたまらなかったようだ。
夕餉の間、上機嫌だった。
「嬉しそうですね。殿」
「あぁ。名を呼んでくれた。やっとだ!」
「そんなに嬉しいのですか?」
小太郎は不思議だった。
彰子に『良鷹さま』と呼ばれても、そんなに飛び上るほど嬉しくはない。
お子さまにはわからなかったので、喜一朗が教えてくれた。
「そういうものだ。人として、男として認められたようなものだからな。俺だって『喜一朗さま』って言われて嬉しかった……」
この言葉に、政信と小太郎は飛びついた。
「お、喜一朗の口からついにノロケが出た!」
「喜一朗殿、いい加減教えて下さいよ。お相手の名前は?」
「そうだ、先輩。教えてくれ」
二人に言い寄られたが、喜一朗は教えなかった。
「ダメです。内緒です」
「ケチ!」
小太郎と政信は二人で声を揃えた。
「なんですか。二人して子どもみたいな」
「子どもじゃないぞ! なぁ? 良鷹」
「はい」
楽しい男三人の夜がその日も更けていった。
その間、蛍子と彰子が住む離れの庭は、劇的な変化を遂げていた。
忠実な『影』が主政信の命を忘れずに遂行したのだった。
朝早く目覚め、主のもとへ寝ぼけ眼で急いでいた彰子は、歩きながらいつもの習慣で庭を眺めた。
しかし、様子が大きく違う庭に驚き、一気に眼が覚めてしまった。
「姫さま! 姫さま!」
布団から起き上がったばかりの蛍子のもとへ、大きな声を上げながら走って行った。
寝起きで少々機嫌が悪い蛍子は、ムッとしながらお子さまの侍女をたしなめた。
「どうした? 騒がしい。走るでない」
「申し訳ありません。ですが、お庭を御覧ください」
「庭? あんな汚い無粋な庭、見る意味はない」
あくびをこらえ、彰子に返した。
「いいえ、だまされたと思って、御覧ください」
彰子は庭に面する窓にかけられた御簾を引き上げた。
蛍子は朝日が眼に入って眩しく、眼を開けてはいられなかった。
「ほら、どうですか?」
「どれ?」
眼が慣れた蛍子は、庭の光景に驚いて息を呑んだ。
雑草だらけでうっそうとしていた庭は嘘のように綺麗になっていた。
庭のあちこちには年中楽しめるよう、春夏秋冬すべての物が植えられ美しい景色を作り、築山も、東屋もそろっていた。
二度と帰れない京の実家の庭を彷彿とさせる光景に、蛍子は言葉を忘れ、見入っていた。
「あっ。池が!」
彰子が注目したのは、池だった。
沼のように澱んで臭った池は水が澄んで小川が流れ込み、朝日を反射してキラキラ輝いていた。
しかも池の中には小さな鯉が泳いでいた。小鴨も数羽、池で水浴びをし、亀が二匹甲羅干しをしていた。
「鯉も、鴨も、亀も。いっぱい……」
二人で感心していたが、蛍子は疑問を感じた。
昨晩までは、汚い庭だったにもかかわらず今は見事な景観。
普通ではありえない。
「誰じゃ。こんなことをやってのけたのは?」
「誰でしょうね?」
疑問に思いながら朝餉を済ませ、庭を眺めているといつもの男三人組がやってきた。
いつもの配置に分かれた後、彰子は小太郎と池を覗きこみ、彼に率直な疑問をぶつけた。
「良鷹さま、この鯉や鴨はなぜ現れたのでしょう?」
「いきなりですよね? 不思議だなぁ」
小太郎も知らなかった。もちろん喜一朗も。
政信が極秘で配下の影に命じて行わせたからだった。
「でも、嬉しいです。お庭が綺麗になって。姫さまもお喜びです」
「そうですか。よかった」
ここで主の話は終わり、楽しい二人のお遊びの時間に突入した。
「ところで、良鷹さまは、鯉はお好きですか?」
「はい」
「では、餌をあげませんか? まだ子どもみたいなので、大きくなってもらわないと」
「そうですね。あげましょう」
二人は仲良く餌を手に、池で楽しみ始めた。
一方、屋敷の中では政信が蛍子と話していた。
「藤次郎、これはそなたの差し金であろう?」
「……どうして?」
政信は驚いた。
「そう思ったからじゃ。主に頼まれたのか?」
そこまで予測する姫に今度は感心した。
「……まぁ、そんなところだ。指図は俺がした」
何を植えるか、どんな動物を池に放すか、景観は京の都を思わせるような物に、という指示だけだったが。
「そうか。そなたそこまで無粋ではないと見える」
「え?」
褒め言葉のようなことを言われ、政信は驚いた。
「礼を申す。ありがとう」
礼まで言われ、政信は感激した。
また、以前より感情がこもった声に嬉しくて飛び上りそうだったが、『野蛮』と言われては元も子もないので、ぐっとこらえた。
「いや、どういたしまして」
すると、蛍子は妙なことを言い出した。
「礼と言ってはいけないかもしれぬが、彰子を呼んではくれぬか?」
「わかった」
すぐさま良鷹と遊んでいた侍女を呼び出し、蛍子の元に遣った。
二人は御簾の中で何やらこそこそとしていて、なにがなんだかわからなかった。
しかし、次の瞬間驚きで言葉を失った。
蛍子自ら、御簾を上げる指示を出したのだった。
政信の目の前には、いつか見た雛人形のような恰好の娘が顔を隠して座っていた。
何も言わない政信に、蛍子はこう言った。
「どうじゃ。満足したか?」
返事は返ってこなかった。
見とれた政信は、蛍子の言葉が聞こえていなかった。
「……やはり、無粋で分からぬか?」
やっと、我に返った政信だったが何も考えず頭に浮かんだことを口にした。
「……雛人形みたいだ」
「は?」
意外な言葉に、蛍子は驚いた。
しかし、彼の声音は馬鹿にしたものではなかった。
心底感動した声だった。
「そういう格好をした人形を子どもの時見たことがある」
「そうか……」
「あの、姫さん……」
政信が声をかけようとした矢先、喜一朗から逢瀬の終了を告げられた。
「藤次郎! 早く!」
「ちぇっ。じゃあ、またな」
逃げなければ危ない。立ち上がった政信に、蛍子は聞いた。
「また来るつもりか?」
「はい。お顔を拝見するまでは。では!」
政信が消えた後、蛍子は扇を下ろした。
「……顔を見た後、二度と来ぬつもりだろうか? 主に事細かに知らせるつもりだろうか?」
なぜか、将来のまだ見ぬ夫に報告されるよりも、毎日のようにやってくる藤次郎に顔を見られるのが怖くなった蛍子だった。
次の日は風が強かった。
その日小太郎はおとなしく屋敷の一郭で、彰子に源氏物語を聞かせてもらっていた。
軍記物しか読んだことない小太郎にとって、初めての恋愛物。
きれいな絵巻物に見入り、彰子の可愛い声に聞き入り、未知の大人の世界に思いを馳せていた。
そんな二人を離れた所で眺めながら、一人見張りに徹する喜一朗は強風で乱れる自身の袴と髪にイライラしていた。