じゃんけん
確かに、自分の評判を高めるためにいい子を演じるというのはありえる話で、一理あった。もしそれが正しいとするならば、南さんの心がキレイと判断することはできない。そうであれば南さんも信じられないということになる。ではもし、二人とも信じてはいけないのだとしたら、結局僕はじゃんけんで何をだせばいいのだろうか。
そう、答えはグーだ。なぜか。二人とも嘘をついているとすれば、二人とも予告したパーは出さない。逆に言えば、パー以外を出すということだ。パー以外。チョキ、またはグー。ならば、グーを出せば少なくとも負けはないではないか。僕は南さん心がキレイじゃない説を採用し、グーを出すことに決めた。
「僕の心は決まった。待たせたね。じゃあやろうか。・・・いくよ、じゃんけん・・」
井口はじゃんけんの音頭をとった。だがそこまで言った時、教室の扉が勢いよく開かれた。
「待ちなさい君たち!」
入ってきたのは担任の桜井だった。桜井は、大きな声をあげ、じゃんけんを制止したのだった。
静まり返る教室。制止されたじゃんけん。桜井は怒ったような顔で大股に井口の元へと近づいてきた。そして井口の正面に立つと、桜井は足を止めた。桜井は涙を流していた。
「な、なんですか・・・先生」
涙を流す担任教師を前にして、井口はそうつぶやくのが精一杯だった。どうしてじゃんけんを止めるんですか?どうして泣いているのですか?どうして怒っているのですか?聞きたいことはあったのだが。
「なぜ私が泣いているのか、井口、オマエには分からないのか?」
桜井は逆に問い返してきたが、分かる筈がなかった。
「・・・分かりません」
本当に分からない。
「それはな、井口、オマエが、グーを出そうとしているからだよ」
なぜ僕がグーを出そうとすると泣くのだろうか。それ以前に、なぜ僕がグーを出そうとしたことが分かったのだろうか。
「井口、いいか、グーの形を見てみろ。拳の形をしているだろう?拳は殴り合いの象徴だ。殴り合いは暴力の象徴であり、暴力は戦争の象徴だ。すなわち、グーは戦争の象徴なんだ」
桜井は涙を流しながらも、穏やかに言った。井口は思い出していた。昔聞いたあの言葉。グーは石、チョキはハサミ、パーは紙を表しているんだよ。幼稚園の先生の言葉だったと思う。グーは戦争の象徴?そんなはずは。桜井は言葉を続ける。
「井口、戦争の象徴であるグーを、クラスメイトに突きつけることに、罪の意識はないのか?」
グーを出すことに罪の意識があろうはずもない、が、そうは言いにくい空気を感じ、井口は押し黙った。
「なぁ井口。私は間違っていたのか?私の教育は。教員になって20年、マジメに頑張ってきたつもりだった。しかし井口、グーを友人に突きつけて、平然としていられるような生徒を育ててしまったのだとしたら、やはり私の教育のやり方が間違っていたのだと考えざるをえない・・・。井口・・・オマエの担任として、責任を感じている・・・。すまない・・」
言い終わるや、桜井は号泣した。
しばらくの間。桜井の号泣と静まり返る周囲。どうしていいか分からずに立ちすくむ井口。その時だった。出席番号3番内田隆が席を立ち上がった。そして、言った。
「井口、グーを出すなんて最低だぞ」
続いて、出席番号18番和田昭雄が起立して言った。
「見損なったぞ井口」
さらに続いて、出席番号28番向井千恵が立ち上がって言った。
「最低、井口君」
そうなのか?僕は最低なのだろうか。僕は・・・。
「井口君」
その時、教室の窓の外から井口の名を呼ぶ声が聞こえた。窓はグラウンドに面している。窓からグラウンドを見ると、そこには全校生徒が集合していた。その中には校長と、校長の横には井口の母がいた。
「井口君、何が君の心を荒れさせたのかは分からない。だが、君がやけを起こす前に、先ずこの人の言葉を聞いて欲しい。君のお母さんに今日は来てもらっているよ」
拡声器を使って校長が井口に穏やかに話しかけた。人質篭城立てこもり犯人のような扱いだった。しかし、そのくらいのレベルのひどいことをしてしまったような気もしてきている。拡声器が井口の母に渡る。
「良太、思い出しておくれ。素直だったあの頃を。あの頃、おまえがよく母さんに聞かせてくれた歌だよ」
母は歌う。懐かしいあの歌を。
聞きながら、井口は心が洗われていくのを感じていた。自分が非行に走ろうとしていたという認識は、正直なところ全く無い。しかし、友人にグーを突きつけようとしていたことを考えれば、無意識のうちに僕は家庭、学校、社会、そういったものに対して、行き場のない不満を溜め込んでいたのかも知れない。溜め込んでなどいないような気もするが、ともかくも、僕は取り返しのつかない過ちを犯すところだったのだ。グーを出すという過ちを。だが、クラスや学校のみんなの、教師たちの、そして母のおかげで、踏みとどまることができたのだ。なんと、なんと暖かい仲間達、恩師達だろうか。
「本当にすいませんでした先生。僕は、グーは絶対に出しません」
担任の桜井に向かって言った。井口は涙を流していた。号泣していた。申し訳ない気持ちと、そして何より、こんな荒れ果てた自分を変えてくれた人たちへの感謝の涙だった。幼く心弱き自分との決別。これからは、前を向いて、人のために生きよう。桜井は無言で井口を抱きしめた。教師と生徒が、人として分かり合えた瞬間だった。
教室の中の一部の生徒から拍手が起こる。それは暖かい空気と共に同心円状に徐々に広がり、やがては学校中に拍手が鳴り響いた。みんな、みんな、本当にありがとう。みんなが、僕の立ち直りを祝福してくれている。
結果、僕はじゃんけんにおいてグーという選択肢を失ったことになる。三択のうちの一つを失うということで、今回のじゃんけん、大分勝つ確率が下がったような気がする。いや、正直言って、全く勝てる気がしない。だがそれでいい。僕たちには友情があることが分かったのだから。それと比べれば、じゃんけんの勝敗がなんだと言うのだ?
井口は高らかに叫んだ。
「さあ、やるぜ!勝負だ!」
大出が応じる。
「負けねぇぜ!」
「ウチだって負けないよ!」
三人声を合わせて合唱する。
「じゃん、けん!」
10分後。井口は大出と南に買ってきたジュースを差し出していた。結局井口はチョキを選んだ。大出と南が出したのは共にブラックホールだった。ご存知だろうか。ブラックホールを。親指と人差し指を使って円を描くあの形。OKサインと等しいあの形。
確かに、ブラックホールは最強だ。グーも、チョキも、パーも、全てを飲み込んでしまうが故に、全ての手に勝利する。しかし、僕はあれは反則だと思う。やり場の無い気持ちをかかえて、井口は買ってきたコーヒーを口に含んだ。とても苦い味がした。