牧神の目覚め
チャイムの音に孝が玄関の扉を開けると、見知らぬ少年が立っていた。13~14才くらいに見える。迷子だろうか。それとも新手の宗教勧誘?記憶にないくらい遠縁の甥っ子とかだろうか。いやしかし記憶にないくらいなら孝のアパートの住所なんて知らないだろうし。
少年は、タブレット端末を取り出し、指で何やら入力しはじめた。孝に画面をつき出す。
『俺だよ、孝。秀明だ。』
秀明!?
少年のややほっそりしたたたずまいからは、あの巨体は想像できない。
『そんな、世界の終わりみたいなびっくりした顔するなって。入るぞ』
とまどう孝の側をすりぬけ、あたり前のような動作で靴を脱ぐ。
『は~、お前んちも、犬の視点じゃないと狭いなあ。前は広いと思ってたのに』
「お、お前、秀明、どうして」
『まあ、座れよ』
そう呼びかける少年の姿の秀明は、すでにすとんと座り、あぐらを崩している。
「座れよって、ここ俺んち……!」
言いながら孝は気付いた。ここは孝の家であると同時に、秀明の家でもあったのだ。犬としてだったが。
『何から聞きたい?』
出されたお茶を一口すすり、少年姿の秀明は端末にそう表示した。
傍らには犬の健太郎が寄り添っている。秀明は健太郎の頭や背を撫でていた。耳のうしろを掻くと、健太郎はうれしそうに目を閉じた。
『健太郎は耳のうしろに垢がたまってかゆくなりやすいから、よく洗ってやってほしい』
「なんでお前がそんなこと分かる……あぁ」
秀明は、健太郎の身体の中にいたのだ。健太郎の身体のコンディションのことは、体感しているだけに孝よりもよく分かるのだろう。
「お、お前どうしてその姿に」
それになぜ口で話さない?なぜ突然いなくなった?何から聞けばいいのかすら混乱して分からなかった。
『その動揺ぶりだと、こちらから順を追って話したほうが良さそうだな』
『わけあって、今は口頭で話すことができない。それも後から説明する。手入力して見せながらだからもどかしいだろうが、がまんして待っていてくれ』
孝は、やかんにたっぷり水を入れ、コンロにかけて火をつけた。秀明の話を聞き終えるまでに、何杯ものお茶が要るだろうと思ったのだ。
『あの日、お前に手紙を書いた後、気分を変えに外に出た。しばらく歩いていたら病院にいた。
病院の中を歩いていたら、少年――この身体の持ち主がベッドに寝ているのが見えた。魂の色が薄くなっていて、もうすぐこの身体から出ようとしているのが分かった』
「ちょっと待ってくれ。魂の色ってなんだ?どうしてお前がそれを見ることができるんだ?お前、霊感なんてあったっけ?」
『いっぺん死んでから、そういうことが分かるようになったらしい。魂は日頃は人の身体をおおっていて、色がついている。それは、人間以外の動植物でも同じだ。その命が死に向かうときは、魂の色が薄くなって、透明になっていく』
秀明は、孝に書き置きを残した後、外に出たとタブレットに表示した。そしてその後少年の身体に乗り移ったらしい。もし秀明が孝の身体を使って外に出ていたのなら、秀明が少年に乗り移った後、孝の身体は病院に倒れている筈だ。しかし実際には孝は朝、部屋の中にいたのだから、秀明の魂は書き置きを書いた直後に、孝の身体から離れていたのだろう。秀明本人もそうとは知らないうちに。
『病室では医師が、少年のそばの中年くらいの男女に、紙へのサインを促していた。(脳死判定による)とか(同意)とか書いてあるようだった。だから、切り刻まれる前にこの少年の身体に入り、使わせてもらうことにしたんだ』
中年の男女はおそらく、少年の両親だろう。状況からすると、少年は脳死状態と判定されたところで、両親は脳死による臓器提供意思の代理表示を求められているのだろう。
「しかしお前、その子の身体をまた勝手に乗っ取ったのか?」
『勝手に、とは失礼だな』
タブレットを示しながら、秀明はクスリと笑った。
「だって……考えてみたら、お前、寝ている俺の身体を勝手に使ってたじゃないか。ケンタの身体だって日中はそもそもケンタのものだった訳だろ?」
『お前には、悪かったと思っている。ただ、ケンタにははじめから話をしたぜ?ケンタが受け入れてくれなければ、俺がケンタの身体を間借りはできなかった』
「いつの間に話したんだよ。手紙には、死んですぐ犬になったのに気付いたって書いてあったじゃないか」
『魂って、一瞬で会話できちゃうんだよ。お前に状況を説明しているほうが、よっぽどまどろっこしい』
「悪かったな」
『ケンタは、生まれたときは4つ子だったが、あのペットショップには他に犬がいなくて、ちょっと寂しかったそうだ。だから、俺がいたのは、きょうだいと一緒だったときみたいで、身体に同居させる苦痛を憂うより、むしろ楽しかったらしい』
ワン!と同意するかのようなタイミングで、健太郎が軽く吠えた。
『まあお前は霊的存在じゃないし、わかんなくって当たり前だよ。だから説明してるんだし。で、話を本題に戻そう。ケンタの時と同じく、俺はその少年の霊とも話をし、身体の使用について許諾を得ている』
「へぇ」
『少年がその身体から出ていく瞬間に会話した。俺が事情を話すと、(ならこの身体、あげるよ)って言ってくれた。かれは、この身体でやりたいと思っていた人生はやり終えたので、天に戻るところだったらしい。この身体の部分部分が臓器提供に使われるのだとしても、身体ごとそっくり、生まれ直したい人のために使われるのだとしても、とにかく誰かの役に立てるのなら嬉しいってさ』
「なるほど、そんな事もあるのか」
『身体を使うことをもとの持ち主が了承したとたんに、かれの今までの個人情報や、今まで生きてきた記憶がざあっと身体に流れ込んだような気がした。走馬灯の逆みたいなもんだな。それによるとこの少年は唖(おし)として生まれてきたらしい。聞くことはできるんだが、話すことができない』
「ふむ。それはそれで、不便じゃないのか?」
『会話が口頭でぽんぽんできない、ってのは意思疎通に時間がかかるので、その点では不便ではあるが、俺は別に歌手やアナウンサーになりたかった訳じゃないからな。むしろ、常に意識して文字でコミュニケーションを取らざるを得ないってのは、文章力を鍛えるのに好都合かもしれない。この少年の記憶の中には手話スキルもあったから、手話が伝わる相手となら手話でもいけるし』
「発想の転換か。ポジティブだな」
『あたり前だ。せっかくもらえた身体なんだ。こうやって毎日、日中堂々と誰のことも気にせず使えるだけでもありがたいよ』
「それも妙な表現だけど……。それにしてもなんかお前、生き生きしてるな、前より」
『こうなってみてしみじみ、やっぱ人間、やりたいことをまっすぐにやるのが一番いいよ、って実感してる。お金とか、見栄とか、世間体とか気にしてたら、そっちに時間や気力・体力を奪われて終わってしまうんだって、前々世で身に沁みた。だから、今度こそは今、この時を大切にしたい』
「もう、迷うなよ」
『ああ』
秀明は生まれ変わった少年としての氏名、住所、連絡先などのメモを孝に渡した。
『メールするよ』