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牧神の目覚め

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「その幽霊を、あなたは見ましたか?」
――NO
「質問を変えます。あなたは、Panを知っていますか?」
――YES
 これは知っててもおかしくない。孝のそばに健太郎がいることは珍しくなかった。賢い犬なら、画面の中のこともある程度分かるかもしれない。そろそろ核心に触れてみようと、孝は思った。
「あなたは、田中秀明を知っていますか?」
――YES
「あなたは、田中秀明ですか?」
――YES
 健太郎と、目が合った
「秀明……なのか?」
 途端に、健太郎は猛然と走り出した。テーブルを抜けてベランダをよじのぼろうとジャンプを繰り返す。
「何する気……待て!」
 孝の部屋は8階だった。たとえ犬でもこの高さから落ちれば命にかかわる。
 孝はもがく健太郎を渾身の力で押さえ込み、窓を閉めて鍵をかけた。
「どうしたんだ、どうするつもりだったんだ……秀明!」
 秀明と呼ばれてびくん、と痙攣した健太郎は、さらにもがいて孝の手を離れ、ロフトへかけあがった。毛布をかぶってすみにうずくまり、動こうとしない。
「おい、秀明」
「キャウン」
 健太郎は、心細げな吠え声を返した。ロフトの階段を途中まで登って眺めると、毛布ごと震えているのがわかる。
 近寄って撫でてやりたくもなったが、ここまで健太郎を追い詰めているのは孝本人だ。
 今は多分、そっとしておいてやった方がいい。


 ロフトから降りた孝は、これまでのことを整理して考えた。
 ひとつ、犬の健太郎は田中秀明である。
 ひとつ、秀明は孝が寝ている間、孝のパソコンを使っていた。
 しかし、犬の秀明はキーボード操作ができない。
 ひとつ、ここに引っ越してきてから、よく寝ても身体が疲れる日が増えた。
 そうなると、導きだされるのは……。
 ありえないような話だが、健太郎が秀明である以上、出てくる結論はひとつだった。
 犬の秀明は、孝が寝ている間に孝の身体を借りて、人として行動している。
「そんなバカな」
 口に出して言ってみる。しかしそれでしか説明がつかない。
(「――俺、夢があるんだ。将来は――」)
 そう言えば、そんな事も言ってたよな秀明。そうか、お前はそれを……。
 居酒屋で語り合ったあの夜。いろんな話をしたあの時。
 孝は、秀明の語った夢を思い出しながら、いつの間にか寝入っていた。


 テーブルの前でいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 目覚めると机上には数枚の書置きがあった。
 手元に手繰り寄せる。見慣れた懐かしい筆跡。
 あいつだ。間違いない。
 大学時代に何度もノートを写させてもらった。丸っこくて、読みづらい字。
 はじめは意味を掴むまで何度も読み返した。クセがありすぎて、忘れようがない。


 孝へ
 ごめん。本当にごめん。
 俺、お前が寝てる間、お前の身を乗っとって、使ってた。
 言い訳にしかならないけれど、はじめはそんな気無かった。本当だ。

 死んですぐ、自分が犬になったのは、気付いてた。
「ペットになりたい」なんて言ったからかな。
 通りがかったお前を見たとき、利用したいなんて考えてなかった。
 ただ、孝ともっと、ずっと一緒にいたいと思った。
 それだけをひたすら思って、念じながら見つめてた。
 お前が俺を飼うって決めた時は、嬉しかったよ。
 形こそ違うけど、また孝と一緒だなって。正直、犬に生まれてみたものの、一人ぼっちな気がして寂しかったし。

 お前の身体を使うことができるって気付いたのは、ここに来てからだった。
 はじめは、偶然だった。気付いたら俺、犬から人の身体に戻ってる……って思った。でも、それはお前の身体だったんだ。
 そのうち意識的に、お前の身体に乗り移れるようになった。
 ただ、俺がお前の身体を夜使うと、翌朝お前が疲れてしまうのが気にかかっていた。
 しかし正直、小説を書いたりSNSでやりとりしたり、オンラインゲームで遊んだりするのは楽しくてやめられなかった。
 犬の姿のときは、一切できないことだから。あのYES・NOカードに前足を乗せるのさえ、犬としては結構大変だし、疲れるんだぜ。
 犬になってみて分かった。確かに、好きなだけ寝ていられるのも、のんびり過ごせるにも、悪くない。
 でも、室内犬には自由がないし、お前がいない日中は、死ぬほど退屈だ。ぜいたく言うなと言われそうだが。
 考えて見れば、あの仕事にしがみつくこともなかったんだよな。一旦仕事をやめて、もっと時間に余裕のあるバイトにしてもよかったんだし、身体をしばらく休めて、その間に小説を書き溜めても良かったんだよな。
 お前にも迷惑かけちまって、反省している。

 俺は以前、とある賞を狙ってたんだ。でもその頃、バイト先のハンバーガー屋で「社員にならないか」って声かけられて。ファストフードの「正社員」って、結局店長職のことなんだよな。
 正社員って言葉の響きへのあこがれもあって、引き受けた。店長になって2か月くらいなった頃、慣れてきただろうからって、店を2つ持たされて。
 お前と会ったのは、3軒目の店を持たされる話が来てた頃だった。孝と飲んだのが最後だよ。まともに人と話しながら食事をしたのって。
 3軒目の店を持ってしまってからは、誰かと飲みに行く余裕なんて、完全に無くなった。3軒も店をかけもちしてると、どんなに働いてもシフトが埋まらないんだよ。朝から晩、いや、場合によっては翌朝まで働いても、気づくとシフトにどんどん人手の足りない時間帯が出てくる。店長は結局、その穴を埋めるために働かなきゃいけなくなる。
 管理職だから、どんなにオーバーワークしても残業手当は出ないしね。もちろん土日祝日もなし。毎日16時間くらい働きづめで、寝る時間も削られがちだった。それで心筋梗塞を起こして、死んでしまった。
 俺は、甘っちょろいようだけど、いつか人間に生まれ変わりたい。そうできたら今度は、寄り道なんかしないで、真っすぐ、やりたいことに向かって進んでいきたい。
 お前の子供になるのも、いいかもな。
 とにかく、迷惑をかけてしまって、本当に反省している。
 これ以上負担になりたくないから、俺を手放してほしい。売るのでも、保健所に預けるのでも、処分方法はまかせる
                      秀明

 その書置きを残して、秀明は消えた。
 健太郎は、そこにいた。だがもう、以前の健太郎ではなかった。
 YES・NOカードを足元に置いても、全く目もくれようとせず、踏みつけて走る。
 食べたり、吠えたり、顔をべろべろ舐めまわしたりするだけの、普通の犬になっていた。
 それからは、孝は寝疲れることがなくなった。
 寝不足状態の元凶である秀明がいなくなったので、健太郎を処分する理由はなくなった。同時に、健太郎を飼う強い動機もなくなったのだが、もともと動物は嫌いな訳ではなかったし、秀明がいなくなったからと処分するのもかわいそうな気がして、孝は健太郎をそのまま飼い続けることにした。


 2ヶ月後。
作品名:牧神の目覚め 作家名:今野綾子