牧神の目覚め
Panは、ギリシャ神話の牧神Panから取った、秀明のペンネームらしい。前に彼が言ったのを、孝は覚えていた。
偶然の一致なんだろうけども、それにしても。
半年前は秀明とは居酒屋で別れたので、前の孝のアパートに秀明が訪れたことはない。
アパートは孝が就職してから引っ越した場所だし、パソコンも仕事の関連で必要に迫られて就職後に買ったものだから、秀明がこのパソコンと接触した可能性はない。
更に、不可思議なことがあった。
孝がときたま見ているSNSやツィッターなどのアカウント名が「Pan」になっているものや、ログインIDを選ばせる画面でID枠をワンクリックすると、自分の使っているIDのほかに「Pan」というIDが候補リストに載っていたりした。
そういったものはたいてい、翌日には消えていた。
ある日、孝は「Pan」とID選択枠に残っているSNSで、自分のIDではなくわざと「Pan」を選んでみた。
「これ……秀明……じゃないか……」
Panのプロフィールは、秀明そのものだった。好きな食べ物や映画、興味のあることまで、全く秀明そっくりだった。
そして、驚くべきことに、日記の更新がある。
秀明は3ヶ月前に死んだのに、だ。
このSNSも翌日にはPanのクッキーが消え、Pan名義でログインはできなくなっていた。
Panは、秀明なんだろうか?
でも、だとしたら秀明は生きていることになる。
生きているなら別に、葬式なんてしないはずだ。
孝は、柩の中に横たわる秀明を見た。取り乱す母親も見た。すべてが演技だとは思えない。秀明の母親は訴訟でも起こしそうな勢いだった。
じゃあ、秀明の幽霊がやっていることなのか?
孝は、いくつか回ったPanが登録しているSNSのうち、ひんぱんに日記更新などをしているサイトに、メッセージを送った。
「はじめまして、Panさん。少しお聞きしたいことがありますので、明後日23時頃にチャットでお話できないでしょうか」
チャットならログを残せるし、万一Panが赤の他人だとしても、いきなり電話番号を教えろと言うより抵抗は少ないだろう。それに、メッセージやメールだと相手に考える時間を与えてしまう分、何かごまかされてしまう可能性もあるが、チャットだと話すのに近いから、へんにごまかす隙をあたえずに、本当のことが聞けるかもしれない。
孝はメッセンジャーとスカイプのアドレスを教えた。
翌日、メッセージに返信があった。メッセンジャーで、ということだった。
当日。
――こんにちは。はじめまして。パンです。
「ワン!」
「おい、ケンタ。チャットがおもしろいのか?」
「ワワン、ワン!」
健太郎は、画面に向かって吠えている。初めて見るから面白いのかもしれない。
――こんにちは、Panさん。私の本名は加藤孝といいます。
孝はあえて、本名を名乗った。本当にPanが秀明なら、孝の名前に食いついてもいい筈だからだ。
――そうですか。いきなり本名を名乗るのも珍しいですね。個人情報ですから、大事にしたほうがいいと思いますよ。
「ワンワンワンワン!」
健太郎は画面に向かって必死に吠え、それからキューンと困ったような声を出し、丸まった。
本名をフルネームで伝えたが、大した反応がない。秀明だったら「孝!?孝なのか?いやあネットの世界も狭いなあ。で、何の用?」とか切り出すに違いないのだが。やはり他人のそら似だろうか。
――あ、ああ!えっと……おさななじみの孝さ……、いや、孝だったよね。久しぶり、元気だった?
おかしい。
明らかに何か、ごまかそうとしている。
――なぜ私が、あなたの幼なじみだと思うのですか?
――それは……ええと……そう、思い出したから!
――じゃあ、どこの学校で一緒でしたか?
――意地悪だなあ。えーと……ど忘れ!
嘘だ。普通、大学時代の同級生を「幼なじみ」とは言わない。このPanは明らかに、こちらに話を合わせようとしている。しかもかなりあいまいな知識で。
チャットの相手が本当に赤の他人なら、「知らない」の一言で済むはずだ。しかし、孝の名を出しても冷静な反応で、数秒後にPanと孝の関係性を「思い出し」たかのように、とってつけたような馴れ馴れしさを演じはじめた。まるで、台本をよく読まずに、設定がうろ覚えな役者のように。
――私がPanさんのことを知っているとしたら、大学の同期ということになります。
――そ、そう、大学!いやあ久しぶりだなあ。
違う。これは秀明じゃない。
しかし、秀明を演じようとしてる。何故?
――Panさん、あなた本当は、何者ですか?
――…………
――私は、SNSでPanさんを見つけました。Panさんは、私の旧友にそっくりのプロフィールでした。それで、私の知っているPanなのか、赤の他人なのかを確かめたくて、チャットしているんです。
相手からは、相槌の気配もない。メッセンジャーは相手が何か入力していたら、Enterキーを押さなくても「何か書いています」とメッセージが表示されるのだが、その表示もされていない。
――……何のために?
しばらくして、メッセージがそれだけぽつんと返ってきた。
――私の知っているPanは、3ヵ月半前に死んだからです。
――!
――あなたは、何者なんですか?なぜ、わたしの友人のふりをするんですか?日記の更新までして。
――日記?知らない。俺は頼まれただけだ。
――頼まれた?
――……隠し通せないようだから話すよ。俺はPanに今夜Pan本人の代わりに幼なじみの加藤孝ってやつとチャットしてくれって頼まれたんだ。
――何故、Pan本人が出ないんですか?
――あいつ、深夜にしかログインできないらしい。
――どうして?
――さあ、そこまでは。
――深夜でないとログインできないなら、私も時間を合わせたのに。
――だろ?俺もそう思うからきいてみた。そしたら、「孝は普通の会社員だから、負担をかけたくない」だってさ。じゃあ、孝さんの休前日の深夜にすりゃいいじゃん、っても言ってみたんだけど、きかなくってさ。
――あなたはPanの友人ですか?
――そうだよ、多分。
――会社の同僚?
――いいや、Panに会ったことはない。
――SNSで知り合ったんですか?
――いいや、違うね。
――では、どんなお知り合い?
我ながらくどいほどに尋問してるとは思ったが、孝は聞かずにはいられなかった。彼は貴重な手がかりなのだ。
――オンラインゲームだよ。PanからはこのチャットのIDとパスを教えてもらった。
相手の返事は、孝には意外だった。
孝はオンラインゲームをしたことがない。そういうものに興味がわかないのだった。だから、ゲーム友達が他人のなりすましを頼めるほど強固な絆を築けるとは、思ってもみなかったのだ。
――オンラインゲームの友達っていうのは、こんな面倒なことを引き受けるほど仲良くなれるものなんですか?それともあなたが人一倍面倒見が良いんでしょうか?
――Panは、特別かな
相手は更に言いつのった。